《ブレーキの 利いてる暮らし 和やかに》

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 NHKラジオを聞いていると,「無買デー」という運動をしている方の話がありました。今年は,11月27日だったそうです。うろ覚えで不確かですが,世界67カ国で実施されており,11月の最終土曜日と決まっているそうです。買い物をしないという日を設けて,消費しない暮らしを再確認するきっかけにしようという趣旨だそうです。お金さえあればという,お金に縛られている暮らしから,心を解放しないと豊かさを失うという直感が働いているのでしょう。
 十分手の中に入っているのに,もっとという気持ちを駆り立てられている消費社会は,人のゆとりや創造性を眠らせています。常に与えられる何か新しいものをと追いかけているようで,実のところはニンジンを突きつけられて走り続ける馬と化しているのかもしれません。そんなに走ってどこに行こうとしているのでしょうか? 気がついたら,人とのあたたかな触れ合いが失われ,人を疑わなければならない怪しげなまちの中に入り込んでいます。まちを作る人が,金に釣られて砂煙を上げてドタバタしていたら,まちはひとたまりもありません。
 昔から「金の切れ目が縁の切れ目」と言われていますが,「金の繋ぎ目が縁の切れ目」とも言えるようです。金の縁以外の縁がズタズタに引き裂かれていきます。仕事ばかりの縁も仕事以外の縁をないがしろにしています。仕事の縁はあっさりと切れます。そのとき独りぼっちに置いていかれて,何をしてきたのかという後悔がズシリとのしかかってきます。まちの荒廃が家庭にまで浸透して,家族が同居人になっているような気がします。
 温もりのある暮らしは人とのつながりですが,それは家計簿上には載せられないか,交際費という支出にしか計上されません。お金では勘定できないもの,それが見えなくなっている心の麻痺がかなり進行しています。思いやりに出会ったとしても,そこに下心を見てしまうほど疑い深くなっています。人は自分の損になることはするはずがないという思いこみです。そう言えば,「タダほど高いものはない」という言葉もありました。
 お金がないと暮らしていけない社会ですが,お金だけで暮らす社会でもありません。貧しく育ってきた世代には,十分に豊かな暮らしができています。おまけの贅沢さが溢れてきて,なんとなくそちらに連れて行かれそうになっていることを,立ち止まることで問い直すきっかけが必要です。無買デーは,本当に必要なのか?という自問をすることから,暮らしを考える日なのです。スーパに行くと,ついでにこれもと買い込んでしまう仕掛けに引っかかってしまいます。要るものだけに限るほうがいいと分かってはいても,買い物は楽しいものです。それがお金感染症なのですが。

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(2004年12月12日号:No.246)