家庭の窓
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報道の世界では,「Good news is no news. Bad news is good news」(良いニュースはニュースではない。悪いニュースは良いニュースである)と言われているそうです。事件や事故や不始末に関するニュースを削り去ったら,報道は退屈なものになると思われています。死者がいないとがっかりするという雰囲気を感じると,ぞっとします。またゴシップが21世紀になっても生き残っているということもあり,人の成長には人生80年では不足であるということのようです。
文明は積み重なって時と共に高く登っていきますが,文化は人の人生と結んでいるのでいつもご破算になります。子どもは親の経験を受け継ぐことはできずに,やり直していくしかないということです。いつの時代でも親の後追いをしているので,追い越したとしてもたかがしれています。文化が分明に追いつけないのは,積み重ねができないという宿命があるからです。
文明的な知識は開放的で洗練されていきますが,文化を支える感性はブランド装飾品で包み隠さなければならないほど不完全です。匿名とか第三者という隠れ蓑を手に入れたら,じわっと噴き出すものがあります。自分に正直にという迷文句に引きずり出されてくる感性は卑しくなってきます。しかしながら,その状態から人は完全に抜け出すことはできないでしょう。それが人の弱さです。大切なことは,その弱さを弁えて,転化し抑制できる品性を会得することです。
なにやらしたり顔で人を論じてみても,虚しくなってきます。自分はちゃんと見えているという思い上がりに自己陶酔しているだけのことです。性根は人のあらを探し出して優越感をくすぐっているゴシップ根性そのものです。論評という表現形式はどこか嫌らしさを持ち合わせていながら,回りくどい言葉でカムフラージュされているために高尚に見えてしまいます。過ぎると鼻持ちならないということになるのは,そのせいです。
似たようなこととして,日本人は○○だから○○である,という物言いがよく聞かれます。自分も日本人なのに,そんなことを言えば自分にはね返ってくるのにと思っています。田舎者という言い方も,自分が少し前にはそうであったことを忘れていて滑稽です。都会者って気取っているだけの寂しい人なんですけどね。その寂しさを隠すには人のことを悪しく言うしかないのでしょう。田舎者に肩入れして返り討ちをする必要もないのですが,つい庇うほうに付いてしまいます。
他人の弱みを作ってしまう言説は,好きではありません。誰に言われなくても,人は自分で弱みを作っているからです。本当はそんな必要はないのですが,ありたい自分とのギャップを感じているからです。それは向上心の源でもあります。弱さを思わなくなったら,感謝の気持ちも失うことになります。弱き者でいいのです。
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