《客の身で 過ごす暮らしが 睦まじい》

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 苦労を経た古人の言葉が名言として語り継がれています。なにがしかの納得を引き出してくれるからです。ある本の中で見かけて,心に留めている言葉があります。伊達政宗五常訓の一つで,「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」という一節です。続きの言葉を省略しておきますが,このままだと若い方には誤解を招きそうです。客という言葉が様変わりしているからです。お客様は神様,客のわがままが通るという考え方,消費者が偉いという価値観が普通になっているからです。
 今はよその家にお客として訪問する機会が少なくなっています。その代わりに,客という言葉は購買者の代名詞になり,お客様というお世辞の世界に祭り上げられています。そのせいで,人の好意は当たり前という思い違いをしています。そこには,商取引,つまりお金を払っているほうに優位性を与える関係が成り立っています。そのためアリガトウというお礼の言葉を言うのは,店主のほうであって客のほうではありません。自分はお偉い客であると思えば確かに何の苦もないでしょう。
 元来,客というのは,よそ様のお家を訪れてご厄介になるという立場です。わがまま勝手な言動は控えなければなりません。もてなしで出されたご馳走を拙くて喰えませんとは言えません。有り難く頂戴して感謝するのが礼儀です。自分の気持ちを相手に寄り添わせてこそ,あたたかな関係が生まれてきます。もてなしてくれる方の善意を信頼できなければ本当の客にはなれません。
 自分が生きていけるのは,この世のすべての皆様から頂くあたたかな支えのお陰です。それがかつての一般的なマナーでした。人様をホストとして,自分をゲストとして,一歩引いておけば,社会的な関係は何の苦もなしということです。「元来,客の身なれば好き嫌いは申されまい」という伊達公の続きの念押し言葉は,謙譲の美徳を具体的に示しています。先に挙げた言葉が心に留まって信条の一つになっているというのは,旧い人間という申告になっているかもしれません。
 欧風の思潮が浸透し,自己主張が普通になってきて,その拡大解釈がはみ出して世間の人は利用するものとさえ感じ始めています。あるいは,皆のものである公共の建物を我が物顔に私用して恥じない面々,「皆のものは私のもの」というわがままが散見されます。よそのお宅に伺って,あれこれ勝手に使いまくったら失礼になるという感性が衰退しています。その結果がいがみ合いになることを推察する力も萎えています。世間のいざこざの背景に,客は神様という誤解が覗いています。

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(2005年01月23日号:No.252)