家庭の窓
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新聞やテレビで論陣を張っている方が,自分の身の回りの細々したことができないと述懐しているそうです。それでいてよくあれこれ論ずることができるものと論評している方がいました。例えば,日用品を自分で買ったことがない人が経済のあれこれを考えて発言するということです。大局を語るのに細部は関係ないということかもしれません。庶民感覚では大局は語れないのでしょうか? 庶民生活を忘れている人が庶民の立場からの発言をできるはずもないでしょう。
全体は細部に宿ると語る建築家もおられます。細部を疎かにして,全体は成り立ちません。総論賛成各論反対という言葉も一般的です。各論が成り立たなければ,総論は絵に描いた餅でしかありません。机の上,数字上の議論と揶揄する場合もあります。現実という細部である各論の多様性を均一化した数字をいじくっても,そこには限界があります。計画が実行段階で修正されるのが必至であるのも,大局と細部の間には摺り合わせる複雑な手作業が必要だからです。
物事にはやってみなければ分からないということがあります。現場での苦労もそこにあります。食事をする。言葉で言えばそれだけのことですが,実際には買い物をして調理し食卓に並べるという作業があります。調理にしても火加減水加減味加減というコツがあります。量や時間というファクターも絡みます。最近は栄養面に加えて,添加物にまで気配りが必要になってきました。そうなると,生産や流通という経済システムに関わる広がりが出てきます。最も大事なことは大局ではなくて細部です。大局が素晴らしくても細部が惨めであれば,意味がありません。豊かな社会になってインスタント生活では,本末転倒です。
人間関係にも似たようなことがあります。社会人としてバリバリ仕事をしていても,夫婦や親子関係をないがしろにしている傾向があるようです。仕事だからと優先することをしているから,足下が崩れていきます。さらには,家庭というのは厄介なものなので,気ままな一人暮らしを選択する人が増えています。仕事が終わって帰る家は無人の孤独空間です。根っこが貧相な暮らしから,よい仕事が生まれるはずもありません。
ごたごたした暮らしの細部を豊かにしようとする向上心が,幸せの道です。思いやりや優しさは夫婦や家族との関係の中から芽吹きます。多くの人が仕事場になんとなく求めているのは,家族的な雰囲気です。温もりは家族にあるという直感です。しかしながら,なあなあ関係が鬱陶しいという感性が若者層を中心に支配的になってきています。温もりを鬱陶しいという感じさせてきたのは,今の社会を作ってきた大人たちの無責任です。家庭での暮らしから逃避してきた父親,押し付けられて辟易している母親,そんな家庭には温もりに見せかけた鬱陶しさが漂うからです。
大きな仕事をしている人が,私的な不手際のために立場を失うということがあります。真面目に仕事をしている人が,家庭のごたごたで道を踏み外します。大局的にはきちんとしていても,細部を疎かにしていたらそのツケはきちっと回ってきます。男女参画というかけ声が出てきた背景では,家庭や社会というシステムの再構築を通して,物事の考え方や感性の正常化が期待されているのです。
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