《得手不得手 暮らしの中で 培われ》

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 連れ合いは体育会系で,地域でのスポーツ行事にはときどきというか,頻繁に出場しています。お陰で正真正銘の文化系である付き添いまで巻き添えになることもたびたびです。全く期待されていず,ただの人数合わせです。見よう見まねで何とかこなしていくと,「上手じゃないの」とお褒めいただきます。最近ソフトバレーの試合に引き込まれたのですが,後の二日間は歩くのに苦労しました。
 期待はずれには二通りあります。期待していたのにという失望と,期待なんかしてなかったのにというプラスの意外性です。はじめての体験では期待なんかされませんが,失敗して元々という気楽さが力の発揮には都合がよいのでしょう。そのときに手本がそばにいるということは大事です。見よう見まねは学習の本道だからです。ひたすら上手な人を見てまねをするだけでかなりの所まではできるようになります。人ができるなら自分にもできるはずですから。
 本当かどうかは知りませんが,人は無限の可能性を持って生まれてくるそうです。日が経ち年を経てくると,得手不得手ができていきます。可能性はどんどん減っていきます。天は二物を与えずと言われるように一つ残れば御の字ですが,それさえもおぼつかなくなります。可能性に優劣の判定が重ねられるからです。それがつらいところなのですが,とりあえずは他との比較はさておいて,自分の中でこれしかできないという境地に至れば,それが自分の支えになるでしょう。一つのことをこつこつ極めていくのも,可能性を実現する道です。そう考えると,育ちの中で知らないうちに一つの道を進んでいくことで,得手ができあがっていくもののようです。
 「よその家に生まれたら今の自分とは違っていただろう」という思いを抱くことがあります。どの家に生まれたかが子どもの可能性を左右するようです。もちろん家庭だけではなく,その家庭を中心とした子どもの生活圏です。気質という特殊性が生活圏と密接につながっているのも同じです。生活による影響ですから,知らないうちに染まっていきます。
 日常の小さなきっかけが後で考えると大きな転機になっています。それをコントロールすることは不可能でしょう。しかし,よいきっかけをたくさん与えてやることはできるはずです。大部分は風のように通り過ぎてしまうのでしょうが,それもまた別の新たなきっかけにつながるはずです。 

(2000年10月01日号:No.26)