《身の程を 越えた話に 悩まされ》

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 身度尺という言葉があります。夫婦茶碗は男女の手の平に合わせて大きさが変えられています。尺二(一尺二寸=40p)のお盆は抱えたときにちょうど肩幅と同じになるので,半間幅の廊下ですれ違っても邪魔にならない大きさです。道具は使う人の身体にあわせて作られてきました。
 道具と同じように,物事にも適正な大きさがあります。古代ギリシャの民主政治は都市規模だからうまくいったのであって,億単位の人口からなる国の規模では無理が生じます。人間的関わりの適正規模を遙かに超えているからです。個人の意思表示が幾重にも連なった間接的な集約によって,最終段階では大きくずれてしまいます。大都市の人間関係が壊れているのも同じです。大きな社会組織では,個人の思惑などは無視されます。いちいち構ってはいられないというわけです。規模による個人と社会の乖離作用が働いています。
 身近な話では,給食に箸を使わせたいという話題がありました。保護者は箸ぐらいと思っていますが,数百人の箸となるとその処理に関わる人員設備等の経費は大きなものになります。規模の圧力が発生するのです。ゴミ問題も似ています。小さなポイ捨てが大きな問題に変わります。使いやすさという個人の志向が積もり積もって環境問題に変質していきます。
 自分のことはできるだけ自分で完結するようにすれば,規模の圧力によって生じる社会的問題は大きく軽減できます。人の力にすがろうとしたり,社会を利用しようとする風潮が蔓延すれば,その積算された結果は悲惨なものになるでしょう。
 大きな社会を営むには,それなりの精緻な神経系統が不可欠です。それが情報化です。ただし情報ネットワークはあくまでも絵空事の世界です。現実の世界では規模の圧力が厳然としてのしかかっています。情報を元に物事を考えるときには,規模による情報の変質を考慮しておく必要があります。
 きわめて個人的な夫婦や親子について語るときにも,時代や社会に結びつける論調が飛び交っています。お話としてはおもしろいかもしれませんが,自分個人にまで縮図として直結することは無謀です。ガングロが流行っていたときも,それはやはり一部の世界であり,マスコミによる増幅作用が働いていました。情報を無視すべきということではなく,すべてと思いこまないようにということです。規模の効果に振り回されない落ち着きが大切です。
 いろんな場面で「規模」という視点から物事を眺めてみると,新鮮な展望が拓けてくることでしょう。

(2000年10月08日号:No.27)