《あれそんな 思いがけない ことばかり》

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 狭い道を車で通っていて対向車とすれ違うとき,邪魔な電信柱などがあると,先にすり抜けるか,待って譲るかという即断が必要になります。接近速度から交錯するであろうポイントを見極め,どちらが先にすり抜けられるかを判断します。そのポイントが危険な場合には,どちらかが停止を余儀なくされます。そのときには,優先順位という決まりが効力を発揮し,はみ出す方が待つことになります。原則的にはそうなっています。
 ところが,現実には,お互いの判断が微妙にずれるものです。先に入り込んだ方が優先という思惑と,優先順位に従うという考え方がぶつかることがままあります。どちらかがブレーキを踏まされることになり,無理矢理割り込まれてきた,押し込まれたという気持ちになります。いずれも止まることなくさっさと通りたいと思うからです。そんなときに,気まずい運転になります。
 安全運転の講習では「だろう運転」の危険性が指導されます。「まさか?」という事態が起こるということです。他者の遵法精神や用心深さを期待して,自分の運転を貫こうとだけしては危ないということです。何が起こるか予測はできないという多少の不透明さに対する用心が大事です。自分だったらしないということでも,他の人はしでかしてしまうかもしれません。わざとでなくても,うっかりということもあります。過失か不可抗力か,境目は曖昧です。
 人は社会生活において,自分の行動様式を基準にします。自分のやり方が正しいとまでは思い上がらなくても,普通だろうとは思っています。そうでなければ,自信を持って生きてはいけません。でも,その普通が結構幅のあるものです。多少強引気味から,どちらかといえば奥ゆかしさまで,人の性格とつながって現れてきます。そこに相性という関係が出てきます。同じタイプの人同士は気が合うようですが,近づきすぎると角突き合わせる間柄にもなります。
 人との付き合いの中で,微妙な違いに戸惑うことがあります。会話でも起こります。同じ言葉を使っていながら,そこに込められた思いがずれています。そのずれをその都度きちんと摺り合わせておかないと,思わぬ形でひび割れをする羽目に出会います。言葉の行き違いや,勘違いがなくならないのは,自分と人との小さな違いを見過ごしにしているためです。気配りや心配りとは,人は自分とは違う所があるという確認をすることであり,それを受容するゆとりを発揮することです。

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(2005年05月08日号:No.267)