《世話したり 世話を受けたり 人生きる》

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 永六輔さんの本に,逞しいおばさまの言葉が載録されていました。「あの嫁から介護を受けたくない。がんばってあいつを介護してやる」。その気概には負けます。女性が長生きする秘密はその辺りにあるのかもしれません。人様のお世話にはなりたくない,迷惑を掛けることは気持ちの負担がとても大きいという生きていく信条があります。がんばっていく力の源です。やがて,力尽きるときはPPK,ピンピンコロリと行きたいという願いがあります。
 長寿社会は必然的に体力の衰えから気力の衰えへと進んでしまうことを余儀なくします。福祉の充実が体力の衰えを補うために,気力の衰えが現れるまで生かされているからです。昔は体力の衰えで一生を終えていたので,気力の衰えまで至らずに済んでいました。惚けるという終末期を生涯計画の中に組み込まざるを得なくなったという,有り難い世の中になったのです。気力を振り絞って,衰えていく体力をフルパワーで発揮することはできます。自分ではできるつもりになりますが,つもりと現実は違ってくることでしょう。福祉社会の一つの課題は,この体力と気力のアンバランスにあります。
 人様の世話にはなりたくない,その生活信条が福祉の受容に対する壁になります。周りの人からすれば,一言言ってくれたらよかったのに,という悔いを残す事態が起きやすいのです。頑固というか,プライドが高いというか,負け惜しみが強いというか,いろんな言い方ができますが,世話を受けてもいいんだという方向に,信条の変化を進めていくことが大事になります。
 ところで世の中とは一筋縄には論じられません。全く逆の場合も出てきます。体力の衰えを正当な理由として,人様から世話をむしり取ろうとするケースも現れます。「あの嫁に介護をさせてやる」というねじれた気力が発揮されます。社会システムは,人の気力の向きまでを想定できません。善意の向きにあることを前提として,構築されています。その甘い理念のために,ごね得を狙おうと思えば,それができてしまうという隙間があります。疑わしきは罰せずという余裕であるといえば体裁はいいのですが,実際的には関わる人の顰蹙の種になります。「ああはなりたくない」,そんな反面教師としての社会的な役割しか認められません。仕方のないことかもしれませんが,何か手がないものかと思ったりします。
 あちら立てればこちらが立たずが世の常とはいえ,次善の策ぐらいならなんとかなるような気がします。方向転換へのねばり強い働きかけです。無頼とも言えるような少数派がいるばかりに,システムが硬直化することは避けなければなりません。取りあえずのキーワードは,「みんなのものは,あなたのものではない」ということでしょうか?

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(2005年05月22日号:No.269)