《親が子に ケジメ教えず 滅ぶ家?》

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 勤め先の前の狭い道は一方通行になっています。帰路についたとき,若い女性の運転する逆走してくる小型車に遭遇しました。ユーターンしてもらうスペースもないので何とかすれ違いましたが,驚きました。知らないということはこわいものです。
 子どもたちが悪いことをしでかしたときに,その悪びれない態度に大人がむかつきます。悪いということを知らないようです。自分の行動がひょっとしたら他人に迷惑を掛けているのではないか,そういう慎ましさが世間というものの核でした。慎ましさが伝わっていません。
 自分の気持ちを大事にするという美酒におぼれ悪酔いしている世情の中で,子どもたちも巻き込まれすっかり酩酊しています。程良い加減というバランス感覚を失っているので,分からない,気が付かない,知らないという無自覚状態です。自覚症状がない病は命取りになります。
 悪行をしでかしても悪いということを自覚していない人は,罰せられないのでしょうか。犯罪の世界では故意か過失かという分類以外に,無知という枠がクローズアップしてきたような感じがしています。無知であれば反省もあり得ませんし,罰を与える高邁な意味も無くなります。特に少年犯罪の場合は,育ちの途上なので無知であることを前提として,特別な対応をしてきました。しかしながら,無知であることが免罪符になりうるかということに,普通人の感覚が違和感を抱きはじめています。知らない状態とは社会システムを根底から揺るがせる一大事なのです。
 人に対する慎ましさは自分に対するケジメから派生するものです。ケジメという言葉を教えられずに育ってしまったために,知らないうちに何の躊躇もなく悪行に手を出していきます。知らないことは恥ではないと言われていますが,知らないと生きることを危うくする大切な言葉もあります。
 親には子どもの保護責任があるとするなら,子どもが無知なために犯した罪に対しては,無知なままに放置した親の業務上過失という形で責任を負わなければなりません。具体的には賠償責任が発生します。類推としては不謹慎ですが,有害商品を世に送り出した企業の責任と同じです。皮肉を込めて言えば,クールな金銭的世界ではやがて親のために「子どもによる加害事件の賠償補償保険」なるものが売り出されかねません。とんでもないことでしょうか?
 現状に対して危機意識を持たなければ,あながち冗談ではなくなりそうです。

(2000年10月15日号:No.28)