《幸せは 命が見える 静けさに》

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 ブロック塀にくっつきそうな位置に,太さ10センチメートルの木がありました。屋根より高くなって枝が軒にかぶさって,夏場は日よけにもなっていました。昨年秋,外壁のメンテナンス工事の際に邪魔になるので,地上1メートルのところで切ってしまいました。植えた木ではなく勝手に生えてきた木であり,根の張りようがブロック塀への圧力になりそうだったので,せっかく生えてきたのにという思いがありましたが,致し方ありませんでした。
 この春先に,切り口の少し下の脇からいくつかの芽が出てきました。あまり大きくならないように養生しながら,付き合ってやろうと眺めています。木の生命力に敬意を表するといったところです。田圃に植えられた稲と伸び比べが始まっています。木は根っこがあれば幹や葉が再生できるとは,羨ましいことです。とはいえ,人は一つの受精卵から60兆個の細胞が30億個の遺伝情報に導かれて個体に成熟するということも,すごいことです。さらに頭脳の神経回路は経験というプログラムをインストールすることで,知恵というソフトを組み上げていきます。生命力による仏に魂が入るという次第です。
 かけがえのない命,口ではそう言いながら,どんなにかけがえがないかはあまり実感されていません。人の命だけではなく,自分の命に対しても同じ状況があります。生きていることに素直に感動できれば,人は幸せの芽を育てることができます。よりよく暮らさなければ幸せではないという誤解に染まることはないでしょう。モノをたくさん持つ,高価なモノを持つ,大きな家に住む,豪華な衣装に包まれる,それらのことはいい暮らしの条件かもしれませんが,生きることにとって大して意味はなく,かえって邪魔になるのでしょう。妙なこだわりにとらわれ,生きている喜びが曇らされるからです。
 豊かさが命を不感症にしています。いくらかの金を奪うために,人に襲いかかります。いらついて見境なく凶器を振るいます。どうなるか見たいだけで線路に置き石をします。ちょっとした酔い心地を求めて飲酒運転で暴走します。社会は生きている人のいる場という根源的な意識が欠落しています。
 例えば,高価な壺がそこここに並んでいる展示場では,引っかけて倒すととんでもないことになるという意識が働き,行動が慎重になるはずです。人混みを歩くとき,同じような気持ちを持っているでしょうか。それぞれがかけがえのない存在という気持ちが,思いやりの源です。見ず知らずの人は石ころと同じと思うようになったら,自分も人からそう思われていると思って間違いありません。人に対する思いは態度に表れ,人はその態度に素直に反応します。自分個人をどれほど愛おしく思っているかではなく,自分たちという人間集団に対する愛おしさが,人間関係を生きる力に昇華する隠し味になります。

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(2005年06月12日号:No.272)