《降り掛かる 艱難辛苦 分け合って》

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 水不足の様相です。隣地の田圃には稲が緑に輝いていますが,貯水池は地肌がむき出しになっているようです。とんでもないものが出てきたダムもありました。その水が飲まれていたのかもしれません。細かく詮索しない方が無難のようです。ともあれ,福岡市を含む十市十四町が時間断水をした平成6年渇水より一月も早く平均貯水率が60%を割り込んだということです。天気予報にも傘マークが出てくる気配はありません。埃を被っているポリバケツが,再登場することになるのでしょうか?
 春には地震,夏には水不足? その先秋には台風襲来? 冬には大雪? 悪いことは重なるという言い伝えは忘れておくことにしましょう。天変地異の前では,人はただ祈るしかありません。身軽に転居できるなら,何の問題もありません。快適な場所を渡り歩けばいいのです。平凡な暮らしをしている庶民には,住まいという甲羅を動かすことはできない相談です。首をすくめて厄災の通り過ぎるのをじっと我慢して待つしかありません。
 限りある自然の恵みは節約して分け合う,それが社会生活の基本的な形です。このような個人としての発想は,実行を伴うことで意味が現れます。外に向かって言うだけで,内では今まで通りの生活を変えるつもりはないというのが普通です。庭の水撒きや洗車にたっぷりの水を使うということがあります。ちょっとぐらいという歯止めの甘さが,社会を虫食いしていることになります。おつむの黒いなんとかは駆除したくなりますが,水争いで収まらなくなるので厄介です。
 世間はお互い様ですから,ちょっとぐらいのことには目を瞑るのが普通です。でも許されるのは,仕方がないと思われる場合や,遠慮の風が見えている場合に限られます。厚顔無礼という風では,お互い様という了解が成立しません。主張しなければ損という雰囲気は,一事が万事という推察に載って,静かに潜行する制裁を受けることになっていきます。普段はどうであるかということが,世間の了解を形作っていきます。特に皆が困ってるときの行動には細かな気配りが必要です。
 過敏に人の目を気にするということではありません。全く気にしないということでは,処し方の舵取りがうまくできないということです。自分をもう一人の自分が処すということを可能にする方便として,他者の目を持ってみるということです。もちろん,自分と人の関係を対立でしか見ていないと,世間はギスギスしたものに思えるようになっていきます。そうではなくて,皆がどう考え思い感じるだろうかという想像を忘れないようにしたいものです。社会性とは皆の中の自分を見ることから発揮されるからです。それがお互い様という言葉の意味です。

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(2005年07月03日号:No.275)