《身の程に 適う世間が 安らかに》

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 日本の借金が700兆円あるそうです。だからどうなのかという感じです。感覚が全くついていきません。単純に割り算すると,国民である我が身に600万円弱の借金を背負わされているという勘定になります。そんなことを勝手に言われても,全く聞いていなくて,連帯保証人の災難に遭っているような気分です。
 豊かな暮らしと思っていたものが,実は借金で成り立っているということでしょう。催促無しの借金であるから気にも留めなかったのですが,ぼちぼち催促が来るような情勢です。税金のアップという督促です。次世代に借金を残さないためには,少しでも返金すべきなのでしょう。
 総論には異論はありませんが,個人的な各論になると一筋縄とはいきません。考えなければならない尺度があります。公平性です。皆ですることなら仕方がないという了解が可能になります。ところが,一部でも不公平の事例が見えてしまうと,「何故ワタシだけが?」という拒否論が根拠を持つようになります。公的機関の無駄遣いが見えると,先ずそこからはじめよという議論に逸れていきます。談合で利を貪った者がいると分かると,先ずそこから返却すべきという議論が追加されます。
 連れ合いの属するボランティア団体では,活動資金の足しにとアルミ缶の回収を実施しています。ある会員の厚意にすがり,経営している会社の敷地内にある倉庫の一隅に集積してもらっています。ところが,最近,集めていたアルミ缶をごっそり持ち去られるという事態が発生しました。回収品ですから実害はないとはいえ,何とも虚しい思いがします。善意の塊をむしり取る性根が,身近に腐臭を放っているのは腹立たしくなります。欲しいといえば,提供できたはずです。その量から自転車ではなく自動車を使っているようなので,大人のしでかしたことと推察されます。世間が世知辛くなったということかもしれません。
 いわゆるお金という富がお互いの了解の上で流れているのであればいいのですが,勝手に理不尽に取り込まれているのであれば,損得という公平の秤が傾きます。そのような不備なシステムは信用できないという風に感性が振れていきます。損を蒙る,負け犬の側に押し込められるような社会は許せないと,怒りの声が渦巻きます。
 社会が悪いという言い方があちこちでなされます。しかしながら,社会にとっては良し悪しという価値評価は迷惑でしょう。社会とは人の善意を集約することで成り立つものです。悪い面が現れるのであれば,それは社会人の中に悪意の者が紛れ込んでいるせいであり,決して社会が悪いのではありません。
 社会がそうさせたという言い方もありますが,それとて人の悪意が絡みつくもつれです。社会のせいにすれば,人は自己責任から逃れることができます。自分だけきれいでいようとすると,その無責任さが沈殿し,邪念を太らせるだけです。
 昔から人は自分の大きさにあった殻しか持てないといわれていますが,現代の殻である日本という国は適正な規模をはるかに越えて,人の善意という淡いつながりではとても正常に維持できないということです。責任を持とうにも,個人にとっては荷が重すぎるのです。その気付きが,地方分権という規模の縮小への動きになっています。自己責任を持てる規模にならなければ,この先の破綻を回避できないという選択です。

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(2005年07月10日号:No.276)