《こだわりの 選び間違い 生きづらく》

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 購読しているメールマガジンの中で,面白い話題がありました。「便座用のティッシュで顔が拭けますか?」という課題の提起です。使うのが躊躇われるというのはどういうことかということをあれこれと考えているようでした。先入観にとらわれることを嘆く論と,そうではなく豊かさの選択だという論が展開されていました。ティッシュに,ウエットティッシュや化粧落とし用ティッシュなどの他種類があるのは豊かさとして産みだしたものということです。
 こだわりという気持ちを持つことの是非は,哲学的なのかもしれません。若い頃に読んだ仏話の一つを思い出しました。少し汚い話です。
 日本から仏法を学びに行った僧侶が,中国のお寺を訪ねました。そこの下働きをしている風の貧しい身なりをした男と仏法の心について問答をしました。男が問いました。「ここに私がいつも使っている溲瓶がある。これで水をくんできて飲むことができるか?」と。きれいに洗えば,どうということはないはずだ。もし飲むのに抵抗があるとすれば,それは心に無用なこだわりを持っているからで,そんなこだわりを持っているようではダメだと諭されたというのです。
 もちろん凡人にとって仏法の悟りといったものは求められてはいないでしょう。しかし,こだわりとか執着といった感性を減らすことができたら,ずいぶんと生きやすくなるような気がします。確かに御札やお札をただの紙切れとして扱うのは憚られますが,それは社会生活上の基本的な価値機能を備えているのであって,こだわりとは無関係でしょう。現在の暮らしには豊かさという名でモノにまつわるこだわりが幅を利かせています。それよりも美しい振る舞いといったことについてのこだわりが大事なのではないでしょうか。最も身近な言葉の美しさも細っているようです。
 花火大会の後のゴミの山は豊かさの証なのでしょうが,人としての振る舞いの貧しさがまき散らされています。モノに対するこだわりよりも,自分に対する美しさへのこだわりの方が大事です。もちろん,単純に着飾るというはしたないこだわりとは違います。
 自分にこだわるということは,ともすればわがままな個性や自分勝手な選択という所に向かうものです。美しさとは孤独なものではなく,共感という人と人とのつながりの上にあります。そのことにこだわることが美しさや優しさを伴う品性と呼ばれているものになります。自分がどんなことにこだわっているのか,浅ましくはないのか,見苦しくはないのか,押しつけがましくはないのか,見届ける明晰な目を持っていたいものです。

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(2005年07月31日号:No.279)