《正論は 無理に通せば 折れ曲がり》

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 車の運転では,スピードを控えめにすることが鉄則です。突き進むという動きは,前にあるものをなぎ倒します。それが人である場合には,危険な行為になります。レース場を走るときは思いっきり走ればいいでしょうが,一般道では許されないことであり,制限スピードが設定されます。ところが,スピード制限は車にだけ適用されているような錯覚があります。自転車のスピードも控えめにする必要があるのに,歩道を突っ走る危険行為が見られます。
 飛び出しや出会い頭の衝突という事故が後を絶ちません。大丈夫だろうという思いこみや,自分は正しいという判断に従った結果でしょう。そのような事故に対して誰もが思うことは,どちらかが注意していたらということです。でもそれは解決にはつながりません。どちらかということは,どちらが注意すべきであるかという話になっていき,お互いの正当性が争われることになります。事故の後始末では普通の展開です。
 事故を防ぐには,どちらも注意すべきです。正しいかどうかよりも,たとえ正しくても事故を回避することを優先すべきです。世の争い事のほとんどは,双方が持ち出す正しいことの衝突です。正しいことは控えめにする,それが社会生活の知恵でしょう。正しければ万事がうまくいくということにはなっていません。ちがった表現を借りれば,義理と人情という相克があるように,正しさだけでは物事は動かないということです。
 正論を振り回すことは程ほどにしておかないと,傷つく人が出てきます。正論には表立って異を唱えることができません。しかし,正論といえども,いつでもどこでも誰に対しても正しいということにはなりません。事情や状況によって,正しさは変わることがあります。正しさの前では問答無用というのは,いささか暴走気味の感があります。控えめにすることで正しさが損なわれるわけではなく,正しさによってもたらされる劇的な動きを緩和しながら,正しさをより磨き上げる過程が必要です。
 社会的な活動に対しては,筋を通すという正しさがベースにあります。その筋が一本道ではないところが悩みです。そこで会議等による話し合いというすり合わせのプロセスが必要になります。筋の乗り換えや修正により一本化が図られます。そこでは筋を押し通すのではなくお互いが控えめにならなければなりません。話し合いという場を通さずに道理を無理じいすれば,その力は割引されるということです。物事とは難しいものです。

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(2005年08月14日号:No.281)