《生きものと 気持ち通わせ 癒される》

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 ペットにしていたニシキヘビが飼い主の居眠り中に公園で逃げ出したというニュースが流れました。別の場所で同種の蛇が見つかり,逃げ出した蛇かどうか飼い主が確かめたけど,はっきりしないという続報もありました。その後のことは知りませんが,最近妙なペットが現れています。ペットといえば,鳥,猫,犬というイメージしかないので,好き好きとはいえ,驚かされています。
 動物が本来の住む世界から切り離され,人間社会の中に連れ込まれると生きることができません。食べていくための捕食という仕事を奪われるからです。そこで飼い主は動物が生きるための世話をしなければなりません。動物はその見返りとして服従と追従を迫られます。安住の処遇を与えられているので,仕方ありません。窮屈であっても甘えていれば安穏と暮らしていけるという打算を持つほどの知能は持ち合わせませんが,生きていくための方便が本能から出てきます。
 飼い主は動物の世話に物心両面でかなりの負担を強いられます。飼い始めたら責任を持たなければならないということです。動物という自分以外のものを責任を持って世話することには,ある種の複雑な快感があります。好きで世話をしているということです。その一方で,人は動物との触れ合いで癒しを得ています。少なくとも動物を飼う人はそう思っています。お年寄りが動物との触れ合いによって明るさや元気さを表現することができるという事例も出てきています。
 人と動物との関係で,動物は自然のつきあいをしてきます。人には義理と人情がまとわりつきますが,動物は人情?だけです。犬や猫は都合のいいときだけ飼い主になれなれしくして,普段はぼやっと寝そべっているだけです。人の社会であれば横着者ですが,動物社会ではそれが自然であり,その自然を直接にぶつけてきます。動物に対しては飼い主側も気ままに接することができ,気疲れしない関係を持つことができます。そこに癒しがあるのでしょう。
 飼っている動物に対する気ままな関係が,動物の出所進退にまで波及すると困ったことになります。飼い主個人の家の中では動物と気ままな関係であっても,隣人もしくは人間社会にとっては,マナーや規制という枠が厳然と存在します。飼い主の手を離れた動物が居てはいけないのです。住む世界が違います。自然世界の猿や熊はやはり隔絶した土地に生きて行かせなくてはなりません。そこを曖昧にするとき,ペット公害が発生します。公の場は動物を想定していないからです。
 そうはいっても,この地球は人間だけのものではありません。畑や田圃のある自然世界は虫や鳥にも生きる権利を認め共生しています。ちょっとぐらいならという鷹揚さがわずかな自然を生きものに残しています。蝶やトンボやセミ,メジロやスズメやツバメ,そんな生きものたちが健気に自分の力で生きている姿を傍に見ているのはいいものです。

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(2005年09月25日号:No.287)