《間違いを 逃れてみれば 闇に入る》

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 パトカーに追われて暴走し,死亡事故に至るという愚かな行動が後を絶ちません。小さな違反を免れようとして,自分だけではなく周りの人をも巻き添えにするという恐ろしさを感じます。罰金と減点程度のことで済ませることができるのに,悲惨な結果に向かう愚かさは当事者にとっては言語道断です。小さな過ちを潔く受け止めて,そこできっちりとケリを付ければそれだけで終わっていたことです。
 小さな嘘を隠そうとして,どうにも身動きのできない破綻に至ることもあります。早い段階で覚悟を決めて謝罪をすれば,わずかの反省と後悔で終わってしまうはずです。誰でも間違いや失敗をします。大事なことは,間違えたときの自己責任の取り方と後始末の仕方です。終わりよければすべてよし,なのです。それも早いほどベターです。早ければ修復が自分の手でできる範囲に収まるからです。そのために自己チェックの習慣を培っておくことです。
 なるべく他人に指摘されないようにします。間違いを指摘されると,咎められているような気分になって面白くありません。特にちょっとまずいかなとはみ出していることを自覚しているときはなおさらです。皆がしているからという理屈を持ちだして,多少のスピード違反や駐車違反をしているような場合です。うまく立ち回ろうというずるさは落とし穴になります。自己責任を負うという覚悟があれば,安全面を優先し違反の領域に踏み込むことはしないはずです。
 清廉潔白,それを体現し貫き通している人はほとんどいないのではないかと思われます。誰でも叩けば埃があり,臑に傷を持っていると言われます。しかし,それは常に自分で責任をとってきた証として,人の生き様になります。間違いを犯し反省し修復しているから,人は真っ当に生きていくことができます。間違いをしないことではなく,間違いから逃げずにきちんと乗り越えることが大事です。そうして生きるしかないのです。
 構造計算を偽造して,取りあえずの無理難題を逃れようとしたことで,多くの人の住まいという財産を幻にした悪徳設計者が現れました。自分の利に目を奪われ,その先にあるとんでもない結末を想定していない愚かさは,社会人として許されないことです。仕事に対する誇りを持っている一級の人だと思うから信頼を得ていたはずですが,仮面でしかなく中味は低級であったということです。
 専門化された仕事は連携という形態によって成し遂げられます。どこか一つでもいい加減な仕事をすれば,全部が無に帰します。誤魔化すという過ちは小さなことにしか思えないでしょうが,つながっている社会ではとんでもない事態になります。その怖さを知っていることが,プロとしての信頼を得る資格です。人として恥ずかしくないように誇りを持ち続けたいものです。

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(2005年12月04日号:No.297)