《楽しみは 直接触れて 分かるとき》

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 近くに用事で出かけるとき,自転車を利用します。風を感じながら走っていると,行きと帰りでペダルの重さが違うのを感じます。平らと見ていた道がゆったりとしていますが結構な登り勾配になっています。まちの中で急な坂道は「あそこは坂道」と認知していますが,平坦な坂道は見落としています。大雨の時はこのあたりは浸かるかも,といった思いが頭をよぎります。自分の足で感じる物事があるということに気付かされます。
 IT産業の興隆振りに見られる光と陰が巷間をにぎわしています。情報社会というキーワードが色褪せ始めて,普通のことに思えるようになっています。特に若者世代の携帯電話の必携状況はコミュニケーションの変革を示す現象です。一般社会はメール情報が普及している一方で,官公機関は文書メールのままに停滞しています。せいぜいファックス利用が双方の了解の下で実行されている程度です。
 文書作成をパソコンで処理し,いったん文書資料としてプリントアウトし,伝達されていきます。そのまま電子メールで送付すれば,ペーパーレスでことは済みます。しかし確実な資料としては,やはり手にすることのできるペーパー資料でなければならないという感性が残っています。一方で,同じ文書が少し修正を加えられて「清書」という名の下に簡単に作成・配布され,ファイル化される文書はあっという間に分厚くなっていきます。日が経つと,どれが本当の書類か分からなくなります。
 パソコンを筆記具と考えるか,文書整理箱と考えるかで,対応が異なります。若い人はパソコンを情報整理箱にしています。アルバムさえ電子化されてパソコンに入っていきます。ところで,筆記具としてのパソコンでは,文字はキーボードでローマ字かひらがなで打ち込みます。結果として,手書きの機会が全く失われ,文字を手に馴染ませることがなくなりました。よくいわれているように,漢字を読めるけれど書けないといった現象が出ているのもそのせいです。
 文字が手を離れたことで,言葉や文章がよそよそしくなっています。自分の言葉ではなくなっています。そのために,会話がとげとげしくなり,責め立てるような調子になっています。話している当人は全く気がついていないのです。自分の手で柔らかさを感じていれば,言葉もやさしくなります。唐突に思われるかもしれませんが,言葉を間接的に機械を挟んで扱うことが,生きている言葉という感性を曇らせているような気がしています。

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(2006年01月22日号:No.304)