家庭の窓
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駐車場に,車椅子のマークがついたスペースがあります。入口に最も近いところに設置されています。そこに車椅子の使用をしない車が悠然と停車します。何ということでしょうか! 使っていないからいいだろうという考え方です。そういえば,似たようなことをしたホテル経営者がいました。優しさとは非効率なものであり,それでも常に利用可能な状態に保っておくのが最低限の了解事項です。
利用者がやってきたとき,ふさがっている状態に遭遇すると,その後あそこは利用できないという判断をさせてしまいます。いつでも空いているという安心感を奪うことになります。優しさとは安心感とつながっています。地域の優しさは,ひとりの心ない行いで台無しになります。駐車場のほんの一角ですら空けてあげられない貧しさを見ると,悲しくなります。
自分の場所があるということは,人にとって最も必要な安心です。家に帰ったとき,「お帰りなさい」と出迎えられるとホッとします。よそのお宅を訪問するときに,「お待ちしていました」と迎えられると,気持ちがとても和みます。場所が用意されているからです。ところで,家の中で最も落ち着く場所としてトイレという個室があげられるようです。孤独は落ち着きますが,それは一時的なことであり,やはり孤独は寂しさや不安が漂う状況です。
人を待つという心情は,自分の傍にいて欲しい人がいるということです。あなたがいないと寂しい,だから場所を空けて待ちます。その前提があるから,待たれているというメッセージに喜びが感じられます。お互いに寄り添うことが安心の基本的な形なのです。
寄り添うといっても,誰とでもというわけにはいきません。その関係にはさまざまな距離があります。この人の間の距離を間違えると,気持ちの通い合いにズレが起こってしまいます。お互いのために空けている場所とは違ったところに入り込まれると,落ち着かないことになります。それほど身近な関係ではないのに,妙になれなれしいといった迷惑感が生まれたりします。もうちょっと距離を置いておきたいということです。
車椅子の利用者に対して,親近感を持たないから,駐車場所を空けておくという思いが持てません。逆に,みんなで待っているという共通理解を持てると,駐車場を開けておくことになります。
人と距離を置こうとしている傾向が強まっている中で,優しさは急速に薄まって,キレルという一触即発の危ない状況が広がっています。思いをやるのではなく,思いを取ろうとしているようです。世の流れはそうであっても,一人ぐらいは,誰かのために場所をきっちりと空けておこうと思います。優しさを失わないための小さな覚悟です。
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