《楽しみは 我が意を得たり あなたから》

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 この一瞬という場面があります。例えば,記念となる写真を撮影するときです。同じメンバーの揃うのが滅多にない場合など,失敗してうまく写っていないと,取り返しがつきません。携帯型のディジタルカメラで撮影するときは,シャッターを押す要領に不慣れだと,手ぶれが起こって,ピントがぼけてしまいます。最近のディジタルカメラは手ぶれ補正が売り文句になっているのも頷けます。
 東京から従兄が出てきてホテルで食事をし,その後従兄持参のディジタルカメラで記念撮影をしました。ちょうど孫を連れていた男性が居合わせて,シャッターを押して下さいましたが,あいにくとピンぼけでした。小さな液晶画面では確かめることは難しいようです。取り直しができないので,どうしようもありません。少し離れた被写体の場合には,それほど目立つことはありませんが,接近した場合には気になる程度になります。
 夜目遠目傘の内という言葉があります。離れてみているとアラは見えません。近づくと余計なアラが目立ってしまいます。人と対するときは,見る方も見られる方も少し距離を置いた方がよいようです。親しくなると距離も近づくようになります。気がつかなかったちょっとしたことを発見し,嫌な気分になることもあります。そこを受け入れることができたとき,親しさは一層進みます。でも,どうしても許せないとなると,親しくなったことがあだとなります。
 人は見かけによらぬものです。良くも悪くも,あんな人とは思わなかったということがあります。それは人のせいではありません。見る側の目が,見ていなかったことを見るようになったせいです。あばたもえくぼ,と同じということもあります。好意の目であれば許せることが,嫌みな目で見れば許せなくなります。写真撮影と同じように,カメラの方がぶれてしまえば,写像も乱れます。いうまでもなく,それは被写体が動いているのではありません。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花。怖いと思ってみれば,枯れ尾花でさえも幽霊に見えます。人に限らず物事を見るとき,自分の目がありのままに対象を見ていないかもしれないと弁えておいた方が無難です。
 ところで,最近NHKの番組で,宮崎アニメのプロデューサーの方が「自分を信じない。人を信じる」と語っていました。もちろん自分の中にも確からしいと思うものを持っていますが,人の話を聞くことで,別の面から確からしさを確認してくれることになるということのようです。思いこみの狭量さを別の表現で解き放ってくれることは,話し合いの中でしばしば経験することです。自分を一度は疑ってみることで,より深く人と共感できるほどの信頼を獲得できます。柔軟な思考とは,そういう融通無碍な態度から出てくるものと思われます。

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(2006年04月16日号:No.316)