《楽しみは 頂いた場で 励むこと》

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 「○○委員は偉いんですのよ」。そんな一言でかつて属していた団体の人から総スカンをくっている方がおられます。それまでにも人によって言うことが違うといういい加減な言動が積み重なっていたようです。少しは嗜みのある方かなと期待されていましたが,逆に少し無粋な方だったようです。○○委員がどれほど偉いのか分かりませんが,それは自分の口から言うことではありません。そんなことも弁えないようでは,資格はありません。自分を支えてくれるはずの人に対して,あなたたちとは違うということを言いだせば,皆から忌避されて浮き上がってしまいます。それだけに止まらず,任命者にあんな人にいつまでやらせておくのかという矛先が向こうとしているそうです。ただのやっかみとか妬みに過ぎないと看過できる程度ではないようです。
 社会的な役割を任された場合,自分に対する信頼の重みを背負うことで,自らの言動への気配りをすることができます。そうすることで役に応じた風格が多少は備わってくるはずです。自分の力で成り上がっていると思い違いをするとき,その成長の道を踏み外します。実るほど頭を垂れる稲穂かな。そんな古い言葉を持ち出すこともありませんが,身をもって示す立場であることも自覚しておくべきでしょう。
 偉いというのは人がついてくる人に対する賛辞です。偉いという言葉の意味も分かっていない恥ずかしい姿がいつまで曝されるのでしょう。その方の身近にいる連れ合いが修正してやれるといいのにという声もありますが,夫婦は似たものという言葉がありますし,内と外の姿は違うものですから,何も分かっていないはずです。よそ様のことはとやかく言いたくはないのですが,公的なことを考えれば,くすぶっている内に早く消した方がいいのではと感じています。
 よそのことはしっかり見えますが,わがことは見えません。目は外にしか向いていません。仏像の目が半眼になっているのは,そのあたりに訳があります。目を見開くと外の世界が見え,目を閉じると自分が見えます。そこで半眼にすれば,外も内も見えるという形象だそうです。夫婦の間はお互いに片目で見るようにという助言と意味は同じです。
 幸か不幸か連れ合い共々それぞれ別の分野で些細な社会的な役割をいくつか背負っています。担ぐつもりは全くないのですが,依頼されるとありがたいと思ってしまう似たもの夫婦です。信頼に応えようとする重圧は常にありますが,ささやかな挑戦という気持ちの張りを楽しんでいます。もちろん,大した働きができるとは思っていませんが,自分にできることを精一杯しています。できないと思うことがあれば,周りの方に助けてもらうようにしています。お互いにできることを持ち寄って,その一角を果たすだけと念じています。あと何年気力が持続できるか分かりませんが,今を連れ合い共々皆と楽しく歩んでいくつもりです。

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(2006年04月30日号:No.318)