《楽しみは 物差し次第 あれやこれ》

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 三国清三さんというフランス料理人がおられるそうです。寡聞にして存じませんでした。料理の方には関心興味がほとんどありませんので,情報の見聞から漏れていたようです。テレビに登場されていたのをたまたま目にしました。その三国シェフが若いころフランスに修業に行っているとき,最高の料理人の元に弟子入りしたのですが,一言も声を掛けてもらえなかったそうです。やっと聞いた一言が「君の料理は洗練されていない」。大変に気落ちされたのですが,そこで一つの確信に辿り着いたそうです。番組では「○○から逃げてはいけない」というクイズ形式でしたが,米,味噌,醤油が正解でした。つまり,フランス料理とはいえ,料理人自身が最もホッとする味覚を離れてしまえば,創り出されるものはどこか本物ではなくなるという意味合いと聴き取りました。
 洗練されているかいないか,それを判定する物差しがなければなりません。自分の物差しを捨てて,人の物差しに合わせようとするのは,自分に嘘をつくことになります。その心根が洗練さを曇らせていくのだと思います。全くの素人感覚に過ぎませんが,「これは美味しいだろう」と迫るような料理は,洗練されていないということでしょう。米,味噌,醤油という味わいは日本人としての心を醸し出す縁になります。自分の心をしっかりと持っていることが,おもてなしを深くします。
 洗練という言葉がこのところ聞こえなくなっています。そんな難しいことは敬遠されるのでしょうか? 高級品を纏えば洗練されると,品性までもがコピー化しているようです。背筋をしゃんとさせてくれる心がないのでは,借り着が見え見えで浅ましくさえあります。何も世情を嘆いているのではなく,自戒を込めて反省しています。衣食のすべてを連れ合い任せにしているので,大きな口は叩けません。したがって,衣食上の洗練さを見る資格がありません。
 連れ合いのお供で,婦人服売り場に同行しますが,「これはどう?」と連れ合いが当てる服の感想は「いいんじゃない」となります。連れ合いは「どうでもいいんじゃない」と受け取っているようで,はなから当てにしてはいないようです。ときおり,服探しのお役に立とうと「こんなのは?」と提案してみることもありますが,チラッと見るだけで即却下となります。センスの無さは折り紙付きのようです。
 食についても同様です。お腹が空けば美味しいという原始的な感覚しか持ち合わせませんので,食事の時間にいただくものは美味しく食しています。ただし,連れ合いの料理の腕が分からないのは申し訳なく思っています。あそこのお店が美味しいとかまずいとかいったことも,全く意に介しません。そうかなというのが正直なところです。お腹が膨れればそれで事足りているということなので,全く洗練されていません。おそらく,世間で言われている食の楽しみを知らない不幸な者なのでしょう。本人は至って日々幸せなのですが・・・。物差しを持たない者に洗練さは無用ということを思い知りました。

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(2006年05月28日号:No.322)