《楽しみは 言葉に出会い 瞑想を》

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 「存亡のかかった戦いをする必要のない場合でも,人間は野心のために戦う。その理由は,自然は人間を,どんなことでも望めるが,その実現となるとなかなかむずかしいように創ったからであろう」(塩野七生:マキャヴェッリ語録:新潮文庫)。

 欲望は空想の世界からわき出てきますが,幸福は現実の世界にしかあり得ないという乖離が,人を悩ませ苦しめます。自然は人間を弄んで創ったのでしょうか? 知恵を持ったことの副作用かもしれません。自覚できない欠陥を持って生まれた人間は,そのアキレス腱を庇いながら生きていくしかないようです。生老病死の四苦のトップに生が位置づけられるのは,生が思い通りにならないからです。人の道という思想を考え受け継ぎ守ろうとしてきた先人たちの苦労が忍ばれます。
 自分の中にある矛盾と真っ向から向き合うことで,人はよきものに近づく方便に思い至ることができます。瞑想するというのは,自らを通して人の性を見つめる営みです。自分を人という枠組みに演繹するプロセスによって,思考が一般性を持つようになります。社会という人々がつながる世界は,自分が人の一員であるという個人の確信に依拠しています。そこで,自分のことしか意識できない者は,社会性が欠落していると断じられることになります。
 欲しいものがあるとき,借金して今すぐに手に入れてしまうか,貯金して後から手に入れるか,二つの選択肢があります。割賦販売は前者であり,現在ではそれが普通になっています。先ず欲を抑え込んでおくことが選ばれます。しかし,現実には借金という負の財産が張り付いているので,幸せ感は薄いはずです。欲しいものを手に入れるのは難しいという原則がなし崩しになっていくことが,人としての堕落につながっていくようで気がかりです。貯金するという現実的な工夫の方が健全であると言えば,古い処世術であると一蹴されるかもしれません。
 落ち着いて考えれば,人としての生き様に新しいも古いもありません。生きる環境としての外界は確かに時代と共に豊かさという面で改善されてきましたが,その豊かさをきちんと受け止める心構えがないと,豊かさに溺れてしまいます。自分を失うとき,豊かさが薬から毒に変質する体質になります。時代が悪いのではなく,人であることに気配りしなかった自己責任なのです。
 ほんの数行の文章に触れることをきっかけとして心静かに自分を見つめ直すとき,生きていることの楽しさを感じています。

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(2006年07月02日号:No.327)