《楽しみは 善いこと選ぶ さりげなさ》

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 性善説,性悪説という古い説があります。説というのですから,一つの考え方,見方を説いたものということです。このような前提をおくと,世事が整理され,理解されるようだという提案です。正反対の説が残っているということは,甲乙付けがたい,どちらも正しいが,どちらも例外があるということで,説としては不完全であるということになります。現実はどちらでもあり得るのです。
 ところで,善とか悪とかという価値評価は,社会性に関わるものです。個人では善悪は意味がありません。そこで人は社会を維持する上でどちらかを選ばなければなりません。もちろん,善を選びます。人はこうあるべきという社会的条件を善と総称しています。善を前提にして,人は信頼関係で結ばれていくことが期待されています。責任を果たすのが善で,無責任が悪ということです。
 世間のあれこれは,それほど簡単明瞭ではありません。善きことをしようとしている人がいます。ある人たちにとって善きことは,他の人たちには悪しきことになる場合があります。そのほとんどは配分のアンバランスという形になります。全ての人に善きことを実現するほど社会資源が豊かではないからです。配分は人の欲望に関わることでもあり,際限がないので現実にはあまねく満ち足りることは不可能です。そこで善きことは人の欲望を抑制するのが普通となり,結果として他者への配分をできるだけ増やそうと働きます。その抑制が個人にとっては悪しきことに感じられるので,事は複雑になります。
 このところ酒気帯び運転がクローズアップされています。それでも跡を絶たないのは,どうしたことでしょう。自覚が足りないというひと言でかたづけて嘆いているだけでは,社会性の成熟度が下がっていくことになります。さらには,不幸にして事故を起こしたときは,酒気を抜く時間稼ぎのために逃げるという姑息な手を使うそうです。現認されなければいいという逃げ道です。潔さが消えて,卑怯です。性悪説が勢いづいて来る気配です。逃げ得は許さない,厳罰に処すべきであるという意見が出てきます。
 ちょっとぐらい,自分は大丈夫,その気の緩みが始まりです。自分本位に行動の善悪を選択する甘さが,社会的には不測の事態を産み出すという緊張感が不足しています。自己の中にある性悪を認めた上で,社会生活上は性善であろうと努力すること,それが人としての根源であるはずです。また,社会の機構は,性悪であると自己に悪い報いがあるように,性善であれば自己に善き報いがあるように組み立てられています。平たく言えば,性善である方が自分にとっても得になるということです。善きことを楽しむ,そうなりたいものです。

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(2006年10月08日号:No.341)