《楽しみは 共有すれば より楽し》

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 方便。手元の辞書によると,仏教の説法で衆生を導くための手段であり,そこから目的を果たすために仮に用いられる便宜的手段を表します。人を見て法を説け,という言葉と似ています。何らかのメッセージを人に伝えようとするとき,その人が持っている情報と重なりができるように加工を施しておくべきです。何を言っているのかちんぷんかんぷんでは,伝えていることが伝わりません。身近な場合として,同じメッセージを子どもに話すときと大人に話すときでは言葉が違うということです。
 報道の中で語られる外国ではかくかくしかじかであるという話は,そうですかと聞くだけで,今ひとつピンと来ないことがあります。風土の違いによって考え方や価値観などが違ってくるので,話される事柄の軽重を推し量ることが困難です。例えば,ゴルフをしたことがない人に,ゴルフの話をしても,つまらない話にしかなりません。
 日常の会話では,何らかの秘めた意図のある話は別として,方便などという手法はそれほど必要がありません。ところが,情報化の中で行き交う話は,話者と聴取者が異なった環境にいることをベースにしておかないと,思い違いやすれ違い,事の大小判断の違いがそれと気付かない形で紛れ込みます。どちらも自分を基準に言葉を使っているからです。その思い違いに悪意を持ってつけ込んでくるのが,振り込め詐欺をはじめとするネットの犯罪です。
 自分が今どこにいるのか,普段は意識していませんが,旅をすると意識させられます。ある土地に出かけ,そこで名物の美味しいものを口にします。お土産に持ち帰って改めて食べると,それほどでもありません。お土産に旨いもの無しと言われていますが,旨いものはその土地と密接に結びついているのではないかと感じます。高山植物は平地では育たないそうですが,人は土地の風土に馴染むことができます。それは人が今どこにいるかによって変わっていることになります。
 話が横道に逸れています。戻りましょう。講演を聞く機会があります。普通は遠来の講師を迎えます。知らない人にはなんとなく期待が寄せられると感じるからでしょう。ところが,演芸関係の講師を除いて,ほとんどの場合,期待はずれになります。真面目な話であるからという内容の硬さだけではありません。話が伝わってこないのです。講話の構成を考えてみると,いかに大事な話をしているかという論拠を自己の体験を交えて並べ立てる所に止まって,「だから何を伝えたいの?」というメッセージがありません。話されることは分かるのですが,その先を知りたいと期待しているものが聞こえてこないもどかしさを感じます。
 料理を出してもてなすとき,相手の口に合わせて提供します。こんな料理をしてみましたと蘊蓄を言われても,もてなしの仕上げが添えられていないと,美味しくいただくことはできません。話をするときにも,もてなしの作法をきちんと守って欲しいものです。人の振り見て我が振り直す。話をする機会が多少はあるので,共に楽しめるように話の展開を考えていきたいものです。

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(2006年10月15日号:No.342)