《楽しみは あれかこれか 選ぶとき》

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 ストーカーの逆恨みや虐待にいじめ,飲酒運転,介護疲れ,悲惨な無念さが次から次にテレビ画面から聞こえてきます。どうしてこんなことが起こるのかと思いますが,話題が転換するとすっと気持ちは置いていかれます。さらに日常に戻ると悲惨な情報は身近のことではないと等閑視していくのが普通です。自分の身に結びつけるには,あまりに違和感があるからです。
 同じ立場に置かれたらどうなのか? そんな仮想をすれば,多少身につまされるところもあります。自分は絶対にしないという過信は持てません。未経験なことに対しては自分の反応を感じようがないからです。人の弱さがそれほど違わないとすれば,自分も同じ結果に至る可能性はあるはずです。考えなければならないことは,そのような状況に入らないように事前に回避する手立てを講ずることです。
 人が生きてきた道には,「あのときああしていたら!」という局面があります。そう考えると,人生のいくぶんかは選び取るものということができます。危険を回避することはできるのですが,その選択は日々行われなければなりません。状況は常に変動しているからです。その選択をしないのは多くの場合,ついそのままにしてきたということです。絶好調の時が没落の始まりという意味のことが言われます。今日現在の最良の選択は,明日には次善の,明後日には最悪の選択になっているかもしれません。早く手を打つということを心掛けたいものですが,つい忘れてしまうのが凡人の性です。
 選択は予防だけではなく,救済においても可能です。先の事例を考えると,不注意の他には追い詰められている状況が見えてきます。その苦しさから逃れるために手段を選んでいる余裕がなくなっています。自らを助ける道は追い詰められている状況から抜け出すことです。自滅以外の何らかの逃れる選択があると信じて,探してみようとすることです。相談して教えてもらうこともできます。何とかなるという粘りは,選択肢があると思うから出てきます。救いにつながる選択は常にあるのです。
 重い選択にはそれほど出会うわけではありませんが,軽い選択は茶飯事です。選択できることが豊かさや楽しさにもなります。買い物などではあれこれ選ぶときが楽しいものです。品種の多いことが豊かさの条件にもなります。貧しさはこれしかないということだからです。人生についても,選択肢の多い方が豊かな人生に思えるでしょう。子どもの時は可能性に満ちているから楽しく,老いていくにつれて選択肢は過去のものとなり選ぶ楽しみは減っていきます。小さな選択をし続ける努力をしたいものです。それが生きていく楽しみにもつながるからです。

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(2006年11月05日号:No.345)