《楽しみは 後先見ずに 走るとき》

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 家の隣に一枚の田圃が取り残されています。三方が家で,狭い道に面しています。その一角にあるとき小さな小屋が造られていました。小屋といっても,板とブロックで作られた屋根と壁のある囲い程度のものです。野良猫が三匹の子猫を生んでいるのを見かけた人が作ってやったもののようで,毎日会社の車でエサなどを持って訪ねているようでした。他人の田圃にあぜ道とはいいながら,不法占拠になるのかもと心配していました。
 それにしても,どうして自分の家に引き取って世話をしてやらないのかと,連れあいと話していました。アパート暮らしなのだろうか,家族に内緒なのだろうか,あれやこれや思いめぐらしても,結論は出ませんでした。何かしら中途半端なままに,日が過ぎていきました。
 三週間ほど経ったある日,道側にロープが張り巡らされ,田圃への立ち入りができなくなり,同時に小屋はすっかり片付けられていました。ネコたちはどこかに追い出されてしまったようです。ネコの人が引っ越したのか,田圃の持ち主が強制撤去をしたのか分かりませんが,その後が気になります。
 心優しい人は困っている生きものを見ると,かわいそうにと同情します。その段階で実際に手を差し伸べるまでには行かないのが普通です。なんとかしてやろうとする人は少ないもです。ところで,生きものの世話を抱え込むと,日々の関わりが必要となり,手間暇はエスカレートしていきます。そこまではつきあえないという気持ちが,同情するだけにとどまる大きな理由になります。
 世話をすることで,かわいそうという気持ちは可愛さの気持ちに転化していきます。それが世話を続ける拠り所になることもあります。今更止めるわけにはいかなくなる,そんな腐れ縁ができていきます。もののはずみという出会いがどのように進展していくか,それは余人には推し量ることのできないものです。先のことを心配して関わりを控えてばかりいると,何も創り出すことができなくなります。
 一期一会,出会いを素直に受け入れて,何とかなると踏み出してしまうのも一つの手です。もちろん楽しい道ばかりではありません。よせばよかったのにという結末もあります。途中で投げ出さざるを得なくなり,状況を込み入らせてしまうこともあります。それでもぐっと飲み込んで苦い経験として次に生かすようにすれば,余計な学費を払ったということで済ますことができます。そんないい加減さを楽しむのが若さの秘訣でしょう。

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(2007年01月14日号:No.355)