《楽しみは 人と向き合い 語るとき》

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 話を聞くのは難しいものです。聞こえているから聞いているとはなりません。耳は閉じることができないので,あらゆる音声が分け隔てなく飛び込んできます。しかし,耳まで届いたからといって,受信しているかというとそうではありません。連れあいの話を聞いていて,テレビの音だけに耳を澄ませて,何の話であったか聞き分けていないことがあります。聞く側のアンテナが何処に向けられているかで,受信状態は全く違ってきます。
 話す立場になるとどうなるでしょう。ある講演会の席で小さな体験をさせられました。二人がペアになって,話し手と聞き手になります。話し手は2分間話をして,一方で聞き手は最初の1分間は頷いたり合いの手を入れて真面目に聞きますが,後の1分間はそっぽを向いて聞こえてくるのに任せます。2回目は交代します。
 話しているとき,相手が聞いてくれていると,次から次に話すことが浮かんできて話し続けられます。ところが,相手が耳だけで聞いているときは,言葉が宙に向かっているようで手応えが無く,何より話すことが無くなって途切れてしまうのです。話は聞き手によって聞き出されていくもののようです。
 家族の会話が途切れてしまうのは,テレビのせいだといわれていますが,それはそっぽを向いて耳だけで聞いているから,話したくなくなるという連鎖があるからです。何にも話してくれないという嘆きを聞くことがありますが,そこには話を聞こうとして向き合っていないという面もあるということです。
 講演に招かれ壇上からお話ししているとき,年配の女性に向かって話しかけるようにしています。若い人や男性は耳だけで聞いているので,話しづらいのです。その点年配の女性は頷きを示してくれるので,まさに話し甲斐があります。たまにジョークを混ぜますが,それは楽しませるためであると同時に,笑いという聞き手からの反応を得るためでもあります。よく会場と一体になるということが語られますが,聞いているという反応があるということです。
 対話は相対して話すこと,会話は顔を会わせて話すこと,つまり,共同作業なのです。聞き手が参加することで,話はお互いにとってよいものに展開していきます。耳だけで聞く話がおおよそつまらないものになるのは,話し手のせいではなく,聞き手の引き出し方が拙いためです。
 このコラムも,読んでいてくれる人がメールで反応を返してくれたり,お会いしたとき感想を伝えてくれたりします。それがなければ,とっくにホームページは閉鎖していたことでしょう。人にお話しする,それは何よりの楽しみです。

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(2007年01月21日号:No.356)