《楽しみは 自分だったらと 考えること》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 世の中のあれこれは,なるようになるものです。頭でこうしたいと予め考えていても,実際の結果は幾分の変更が組み込まれるものです。想定内のこともありますが,想定外のことも起こります。そんなときに所期の目的に向かうために何処を修復していくか,その見極めが大事です。
 団体の役員の一翼を担っている連れ合いが時々こぼしています。行政が発行する広報に団体活動を報告する頁が与えられており,その編集を任されています。その頁の一角に今月の予定という囲み欄があります。広報の発行時期ですが,前月末になっています。例えば,2月号は1月末に配布されています。ところが,その原稿提出は前々月末,12月末が期限です。活動は2か月前に計画されていないと掲載できないのですが,その2か月の間に諸般の事情により変更を余儀なくされることがあります。
 誰が考えても想定外のことであれば,仕方がありません。ところが,想定が至らない場合や,やるべきことがミスや失念で滞ってしまうこともあります。まだ先のことと気を抜いているのです。例えば,外部から講師を招いての事業で,広報発表後に講師との交渉が行われ,講師の都合で日程が急遽変更されることがあります。やるべき手はずの順序が守られていないミスです。
 予定は未定であるという開き直りもできますが,それはやはり想定外のことに限って置いた方が無難です。人事を尽くして天命を待つ,その覚悟を仕事を任されたものは持つべきです。そこで気をつけておくことは,人事を尽くすという部分です。尽くしようは人によって変わってくるということです。あの人が尽くすほどこの人は尽くせないということがあります。この違いは多くの場合,能力の問題ではなく,場数を踏んでいるかどうかが決め手になります。
 場数といっても,それを経験として学んでいるかどうかということで,処理能力には差が出てきます。当事者として場数を踏むことは,限られた人数なのでなかなかできません。当事者の傍にいることはできます。その時に,他人の役割だからと傍観していては,何も得られません。自分が当事者だったらどうするか,自分で考えてみることが大事になります。考えるというプロセスがあって始めて,学びは可能になるからです。連れ合いの傍にいて,良い経験になるように考えさせています。
 岡目八目という言葉があります。端で見ていると当事者よりもものごとがよく見えることがあります。その機会を逃さないようにするのです。自分が当事者になったとき,その試行経験が役に立ちます。
 いろんなことはなるようになるものですが,心掛けでなりようが違ってくるというのもおもしろいものです。自分には何ができるか,その課題を追い続けていくのも楽しいことです。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2007年02月11日号:No.359)