《楽しみは 人と触れ合い 温め合う》

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 インターネットの世界が若者には日常空間になっているようです。このコラムもネット空間に存在し,サイトに訪れていただいた方の目に入ります。写真は掲載していませんが,ネット世界には絵と文字があり,音楽などの音もあります。この世界は,人の感覚に当てはめれば,視聴覚の世界ということになります。
 ところで,人の感覚には五感があり,ネット世界の視聴覚の他に,嗅覚,味覚,触覚があります。嗅覚と味覚は主に食物に関する感覚ですので,日常生活上はいつも働いているわけではありません。残りの触覚ですが,普段はあまり意識されていない感覚です。せいぜい洋服の肌触りや果物などを選ぶときに触って確かめるといった程度でしょう。でも実際には触覚はかなり使い込まれているのです。
 触覚といえば手の触覚しか意識されていませんが,触覚は全身にあるのです。朝起きるとき,触覚が働いています。もしも触覚が機能しなくなったら,寝たきりになって起き上がれません。何かにつかまってと思っても,つかむことができません。筋肉の何処にどれほどの力を入れればいいか,その情報を触覚から得ているからです。もちろん立って歩くことなど不可能です。足が痺れて感覚を失ったら,立てずに転んでしまうはずです。経験されたことがあれば,想像できるでしょう。日常のあらゆる立ち居振る舞いが触覚情報を得ることによって可能になっているのです。
 外界の情報を得るときに,遠くの情報を早く手に入れるために視聴覚が機能します。生きていくために必要な直接的な情報は嗅味覚と触覚から得ています。人の間の情報交換でも,握手や抱き合うという触れ合いが親密さの表現になっているのは感覚的に受け入れやすいからです。ところが,最近は日常の中での清潔志向が進み,人と触れ合うことをなるべく避けようとしています。生活臭を含むあらゆる臭いを忌避して,香りで誤魔化そうとしています。下着を洗濯機で洗うときに別にするといった妙な隔離感が生まれています。生きるということに対して背を向けていては,命のことなど思いも及ばなくなります。
 人との触れ合いを持てなくなったら,人を愛することもできなくなります。マンガの主人公やフィギァ人形に恋をするといった理解できない心情は,生きている人に対する関心の低下を表しています。生きている人は自分の思い通りの人ではないからという理想追求の帰結なのでしょうが,人を愛おしく感じるのは,思い通りにならないからということを見失っています。
 人と触れ合うことの喜びを知らなければ,人としての愛や優しさは決して湧いてくるものではありません。人は触覚を通して生きているのですから。お互いの温もりを確かめ合うことを楽しみたいと,今日も連れ合いとの距離を最接近しています。

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(2007年02月25日号:No.361)