《楽しみは みんなの中の 自分見る》

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 新しい挑戦に落ち着かない日々が続きます。ある組織の会員向け広報の発行を委任されました。会議の場で協議されるような正式なものではなく,どちらかといえば個人的なものであり,それでいて一応の検閲を受けるもののようです。A4版1枚の簡単なもので,月刊になります。どちらかといえば,事務局だよりといった方が適切ですが,事務連絡は一部で,何を書いても自由というもののようです。ようですと書いていますが,何の決まりもないので,発行者の好きな形でよいという前任者の申し送りがあるだけなのです。それでも,印刷・配布は事務局で行うので,それなりの制約はあるのでしょう。
 連れ合いが「今日は何が食べたい」と尋ねることがあります。「何でもいいよ」という返事が通例です。あれこれ考えるのが面倒ということと,今日は何かなという期待を楽しみたいということがあります。連れ合いの立場にすれば,はっきり言ってくれた方がいいのでしょう。「何でもいいよ」という返事ほどいい加減なものはありません。いろんなことを勘案しなければなりませんし,焦点が絞れません。せめて,和風か洋風か中華風とでも条件をつけられたら少しは楽になります。
 子どもたちに「好きなようにしていいよ」というと,喜んで勝手に振る舞います。ところが,学校で写生の時間に「何を描いてもいいよ」と先生に言われると,子どもたちは迷います。考えて選んで「○○を描いていいですか?」と確認します。何でもいいといっても,そこには何となく適不適という制約があると思うからです。自分の思い通りでよいのか,それとも他人との整合性が求められるのか,事柄によって見分ける必要があります。
 広報の発行は私的なものであってはいけないので,当然のこととして皆のためになるものという制約があります。そこで「皆のためになるものとは?」という新たな課題が出てきます。不特定多数の意向に添わなければなりません。しかし,すべての人を満足させようとすると,何もできません。そこで出てくる結論は,自分を皆の中において,自分が満足するものを作り上げるしかないということです。自分を相対化することです。
 改めて自分にとっての広報とは何かと考えればいいのです。そうすると,これまでの広報のどの部分に関心が引かれたか,どこが見過ごしてきた部分か,どこが気に入らなかったか,確認することから作業は始まります。同時に,ほかに欲しい情報が何かないか,それを込めていけばいいということになっていきます。毎月の発行ですから,内容・テーマの構成を決めておくことも必要になります。情報を集めるためにも,自分が何が知りたいかを具体化しておかなければなりません。あれやこれや考える楽しみが飛び込んできています。

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(2007年04月01日号:No.366)