《楽しみは 語る刃を 我に向け》

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 投票を済ませました。投票率はどれほどなのでしょうか。60%とすれば,単純な過半数は全体の30%になります。つまり,3割の人の意向で,政治は動いているということになります。4割の人はどうでもいいという無関心派になりますが,政策についてはあれこれ文句を言ったりします。投票という権利を放棄しているのなら,どのような政策であれ受け入れるのが筋だという論法になります。
 観戦スポーツが観客という立場を生み出しました。選手は懸命にプレーをしているのに,ああだこうだと勝手なけちをつけているのを耳にすると,何か違うのでは思ってしまいます。頭で考えるとおりに物事が進めばいいのですが,現実はそんな仮想現象とは違います。思い通りにならないから,スポーツは楽しいと思えるのです。何が起こるか見通せない部分があるから,緊張感も楽しむことができます。
 コロンブスの卵のような後知恵は,もっともらしい正論になります。あのときあのようにすれば良かった,それは反省でしかなく,これから後のための予備知識になります。過去にさかのぼっていき,過去を責めるためのものではありません。大切なことは同じ失敗を二度と繰り返さないことであり,それを可能にするために後知恵を記憶しておく必要があります。なぜ失敗が起こったのか,その要因についての分析と情報化,社会が共有するための教育的な活動,さらには排除できる要因なら,その方策の導入などがなされてこそ,社会はより良い方向に向けて進むことになります。
 ところで,人はこれまでの歴史からいろいろな知識を持ち合わせています。知ってはいるのですが,それを生かす段階には歩まないもののようです。知っていても,それは私には関係のないこととして,書の中に封じ込めて置き去りにしています。知らぬ顔の半兵衛という意識的な無視とは違い,自分の身に重ねることを厭っているようです。
 「不都合な真実」という温暖化に対するアル・ゴアによる警鐘が,知識から知恵になるプロセスを阻む厚い壁の存在を同時に突きつけています。「天災は忘れたころにやってくる」という寺田寅彦の警鐘も,関係性を拒否する,つまり自分の問題と意識しない無関心から生じる危険性を訴えています。
 観衆という無為の批評家,野次馬という無責任なコメンテーター,自分を脇に置いて知ったかぶりを振り回している傍観者,そう嘆いてみせるこの文の執筆者,そんなあだ花は隅に引っ込んでいればいいのです。社会の激動に身を置いて,自分にできることは何かを見極めながら,実行する者の姿が何よりも尊いのです。何か物言う人に対して,「お説は分かりました。それで,あなたは何を実践していますか?」という問いかけをすることが一つの試金石になります。
 人のことをあれこれ言う前に,まず自分に対して問いかける勇気を発揮するのも,大きな楽しみです。

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(2007年04月08日号:No.367)