家庭の窓
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連れ合いが何を思ったのか突然尋ねてきました。「あなたに,座右の銘ってある?」。座右の銘という言葉がとっさに出て来ずに,いくつかの言葉のやりとりがあった後のことです。「そんなものあるわけがない」と妙に肩に力が入って答えてしまいました。そんなものを持っていないという痛いところを突かれて,少しばかり動転していたようです。考えればそれらしい銘はいくつか出てきますが,普通に耳にする銘でしかなく,自分の銘と意識しているわけではありません。
もちろん,生きていく上で心がけている指針めいたものはありますが,それは場面ごとに変わります。したがって,これといって一つに限定したことがありませんでしたし,短い言葉としてまとめたこともありません。色紙を書くという機会があれば,自分の銘となる言葉を意識して選択したのでしょうが,幸か不幸かそんな経験を持ったことはありませんでした。
連れ合いとの対話の時には,無理をしないこと,考えすぎないことなど,まとまりのつかないことを言っていました。こんな場合にはこうする,こう考える,こう願うといった風に変幻自在に自分を導いてきたせいか,場面設定がされていないと,自分の指針は反応できないのです。例えば前述の色紙を書くという局面では,渡す相手との関係が限定されているので,言葉を選ぶことができます。野球選手なら野球をやる上での銘,職場であれば職場での銘,講師であれば専門領域に関わるような銘が選ばれます。日々是好,継続は力なりなどといった人生銘もあり得ますが,あまりに達観しすぎていて,その境地には至っていません。
座右の銘がとっさに言えないということ,それは指針を持たないいい加減な生き方をしているということになるのかもしれません。そのように思われるという不安があります。無宗教という信じるものを持たないことが,信じるものを持つ人には奇異に見えるという話を聞きます。かつては,武家も商家も家訓という指針を持っていました。普段からよるべき指針を意識することが大切だということです。武家でも商家でもない,ましてや家意識すら失ってしまっては,個人の個訓として銘を持つべき時代なのかもしれません。
市民という立場でみれば,よるべき指針は法という形で共通理解されています。市民であること,それが最低限の生きる指針になっています。その上に,マナーや道徳観,幸福になるための心得など,たくさんの指針を選びながら人は生きています。
あれこれ考えても,収束しそうにありません。連れ合いと過ごすひとときには,愛,それが銘であると答えておけばいいのです。家族と過ごすときは,和,そんな銘を心に飾ることにしておきます。今の自分を表す漢字や言葉を探す,そういう自省の時を持つのも楽しいことです。
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