《楽しみは 車の流れ 無理せずに》

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 幹線道路につながる狭い道で,右折の車があると,流れが停滞します。朝の通勤時間帯では,対向する直進車が続くので,右折の車は信号の切り替わりのわずかの時間に1,2台しか通れません。後続の車は,青信号を前にしながら待たされて,結局は数回の信号待ちになります。こんなところで右折をするなとイライラすることになります。気の短い車は,両方が赤信号になっている隙間をくぐり抜けようとします。
 時間に刻まれている生活では,余裕を見計らって移動し,早めにスタンバイできるように心がけています。ところが,その移動の途中,信号待ちの時間はなるべく少なくなるように気持ちが急いてしまいます。黄色信号は止まれの合図ではなく,早く通り抜ける合図と勘違いしていきます。ゆったりと行動しようとしている一方で,運転の時間はセカセカとするのはどういうことでしょう。そんなに急いでいかないでも,時間の余裕は見ているというのに,運転者になると豹変するようです。
 片側2車線の道が先に行くと1車線になる道があります。多くの車は先の1車線につながる道に並んで動いています。ところが,横をすり抜けて先の方で割り込もうとする車もいます。その分,並んでいる車は後回し状態になります。急いでいるのなら,同じようにすればいいのでしょう。並んでいる車は,先の方で割り込みをさせてもらうという甘えが嫌なのかもしれません。急がずゆっくりと安全運転,進路変更は気疲れするものですから,自然に流れていく方を選んだ方がいいようです。
 早く動きたいというのは闘争本能なのでしょうか? スピードに快感があるというのは,そういうことでしょう。若者が暴走に身を焦がすのは,それが自然と考えるべきことになります。社会生活では個人的な闘争本能は封止されなければなりません。スピードは控えめにというキャッチフレーズが必要になります。車を運転することは本能に逆らって我慢を求められるつらいことなのです。負の緊張を強いられるからでしょうか,運転は疲れます。
 飲酒運転の悲劇が後を絶たないのは,車が持っている利便性の裏に潜む本能を酔いが解き放ってしまうせいです。酔いという快楽に止まればよいのですが,運転という行為と重ねると行動の副作用が起こるのです。一つ一つはそれなりに制御できていても,重なるときの副作用をしっかりと意識しておかなければなりません。幸か不幸かお酒を飲まないので,あまり心配はないようです。適度なスピード感だけを楽しむことにしましょう。

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(2007年06月17日号:No.377)