《楽しみは 学びの扉 開くとき》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 講義に出かける車中で,ラジオから投稿の披露が聞こえてきました。あるご婦人が中学生の頃のお話しでした。工作で木のお盆を作成して,それにどのような色づけをしようかと考えていたとき,父親から「飾るより磨け」と言われたそうです。ペーパーで磨くと,木の年輪が浮かび上がってきて,それだけで美しくできあがったそうです。それ以来,飾るより磨けという言葉が,折に触れて,道しるべになったというのです。
 短い言葉でしっかりと大切なことを伝えた父親,そんな父親が昔の普通の父親であり,大人でした。それだけではなく,父親の言葉を素直に聞く子どもがいました。素直にというのは,理由を問わずに分からないままで,言われた通りにやってみるということです。やってみるから,そうだという気づきがついてきます。結果は後からついてくるということ,分かるというのは経験の後に起こるということ,教育の形がそこにあります。
 今は結果を先に知ろうという学びに逆転しています。今の子どもに「飾るより磨け」と言えば,「どうして?」と理由を問います。分かりたいからですが,それは頭での理解,いわゆる理屈になります。感覚を通した身につく理解ではありません。「木目がきれいだから」と説明するでしょうが,言葉では知ることはできても納得はできません。木目がきれいという納得は,ざらついた板が磨かれた木目に転換する驚きを経なければ得られないのです。
 木目がきれいだからと聞いて,それから磨きます。結果は同じでしょう。しかし,飾るより磨けと言われただけの場合は,この言葉が記憶に残ります。木目がきれいと言われた場合には,木目がきれいということが記憶されて,飾るより磨けという言葉が印象から漏れ落ちていきます。広い意味を持つ言葉が,木目という具体的なものに隠されて,応用できなくなります。学びが狭くなってしまうのです。
 一を聞いて十を知る,そのためには,一となる言葉としてどのような言葉で留め置くかということが大事です。木目がきれいという言葉にまで進むと,一を聞いて一を知るに止まってしまいます。きちんと分かりやすく教えすぎると,学びはやせ細っていきます。一を十にするのは,学ぶ側の素直な姿勢,自分で分かるという経験に依るのです。
 もう一つ大切なことがあります。それは「磨け」という動詞で行動を教えているということです。磨くという行動はいろんな場面で使われます。ところが,木目がきれいという事実の教えはそれだけのこととなりやすいでしょう。そこからさらに自然のままが美しいという概念の広がりを持つには,類推の力が必要になります。人が生きていく上で必要な知恵は,どのような立ち居振る舞い,行動をすればいいかという選択です。自然が美しいという価値に近づき気付くために,まず磨くという行動を選びなさい,その第一歩を教え覚えさせることがなによりも役に立ちます。
 分かりやすく教える,それは学びの力を弱めると同時に,学びの広がりも台無しにします。分かりにくい,だったら自分で確かめる,そのような意気込みで学びの扉を開くとき,学びが楽しくなるものです。知る喜びがついてくるからです。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2007年07月01日号:No.379)