《楽しみは 世情を眺め 考える》

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 李下に冠を正さず。中学か高校かは忘れましたが,漢文の時間に学んだ一節です。李の木の下で傾いた冠を正そうとすると,他人の目には李をもごうとしているように見えるから,誤解を受けないようにした方がいいという意味です。自分を律するというのはそういうことなのだと強く感じたのでしょう,今も覚えています。自分の身の処し方は自分が納得しておけばいいというのではなく,少なくとも人の目にも明らかでなければ,要らぬ疑いを招くことになるという処世訓です。
 自分さえきちんとしていればいいのであって,誤解する方が悪いと考えることもできます。基本的にはそうですが,誤解を招きかねないことはできるなら止める方が賢明です。人の目の怖さを想定しておかなければ,人付き合いに支障が生じます。げすの勘ぐりと一蹴してしまうこともできますが,一筋縄ではいかないのが人間関係の難しさです。特に公的な立場にある場合には,立場の清らかさが求められているので,気をつけなければなりません。
 公的資金の使途の不明瞭さ,不適切な言辞,病気休み中のスポーツ,いろんなことが立場を曇らせてしまいます。知られなければ済んだことかもしれませんが,公的な場面ではそうはいきません。立場は常に見られているという緊張感を持っていなければなりません。そんなつもりではなかったといっても,言い訳は届きにくいものであり,立場の濁りはあっさりとは消えません。ひとかどの大人と目されている人たちが,何ともお粗末な行状を呈しているのを見せられると嘆かわしくなります。
 公私のけじめをつけるという緊張感がなくなっているのでしょうか。日常の立ち居振る舞いが傍若無人に近くなっている人を見受けるようになったのも気になります。個を大切にという戦後の風情が慎みという柔らかな衣装を虫食いにさらしています。人が変わった背景には,子どもを育ててきたおばさんパワーの影響があるということを語る人もいますが,どうなのでしょう? 人がすることにはデメリットとメリットが表裏です。裏だけ見て断定することは浅はかです。
 国際化というつきあい範囲の膨張は,つきあいを浅くしていきます。情報化は不特定多数を相手にすることになり,その場限りの軽いのりで済みます。コピー商品が蔓延するのも,製作者という見ず知らずの相手に対する敬意が掛けていることを露呈しています。マスコミで不祥事を謝罪する人が「国民の皆様にご迷惑を・・・」と言っていますが,国民という大まかな言葉では人間を感じさせません。社会活動の先に自分と同じ人間がいるという身近な感性を持ち合わせていないのです。
 人がどんな思いをするのか,自他の同一性を基盤において,自分を律する気遣いができるようになりたいものです。感性を鈍らせないために,世情を眺めながら考えるという時間を持つのも楽しいことです。

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(2007年08月12日号:No.385)