《楽しみは 思い違いを 正すとき》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 このところ,しきたりや品格に関する書籍が注目されているようです。なにかしら社会が薄汚くなっているという直感を多くの人が持っているからでしょう。先の宰相が美しい国づくりと唱えた背景にも,汚い国という現実認識があったのでしょう。報道されている世情は,かなり民の根性が汚染されているといった様相を明らかに呈しています。
 このような国レベルの大まかな関心を離れて,身近な地域レベルを見ることも大事です。警察からメールで不審者に関する情報が届きますが,このところの中心になっている事案は,通りすがりに女性の胸をいきなり触るという事案と下半身を露出するという事案です。いずれも男性が加害者です。ひったくりも相変わらず頻発しています。知り合いの範囲に狭めると,平穏無事なようですが,ごく近くの場所に迫ってきています。いつ身近な発生に遭遇するか分かりません。
 かつて暮らしの場は知り合いの輪が連なっていました。ところが,そこに集合住宅が建ち,知り合いの輪とは無縁な空間と人が入り込んできました。側にいるのに言葉を交わすこともない人が増えてきて,通りすがりの旅人と似た関係が現れてきました。さらに,車社会は交通の便を良くしたことも重なり,生活圏が拡大し,お互いに暮らしの場を広げていき,結果的に知らない人と混ざり込むようになりました。例えば,スーパーでの日常的な買い物をするとき,そこに居合わせる人は知らない人ばかりです。
 旅の恥はかぎ捨ての言葉通りに,知らない人の間には品性は無用というわけです。袖振り合うも多生の縁とか,一期一会といった暮らしの指針が効力を無くしているだけではなく,天知る地知る己知るという自己抑制も消滅しています。ベネディクトに指摘された恥の文化も過去のものでしかないようです。貧すれば鈍する,だから豊かになって,衣食足りて礼節を知るという世間を目指してきたのですが,実際には衣食足りて礼節を失うということになってしまいました。
 衣食足りて礼節を知る? それは間違っていたのでしょうか? 実は,人の気持ちの機微を弁えておかなければなりません。衣食の豊かさに向かう欲望には,ゴールがないのです。足りるというゴールは,礼節が在ってこそ設定できるものであったのです。衣食が足りれば,礼節が生まれるというのは勘違いであり,誤謬です。足りるという前提が礼節を必要としていたのです。
 しかしながら,衣食足りて礼節を知る,それはまだ成り立ちます。その前提として,礼節が常に守られているということがあります。衣食が足りていないときは,礼節は無駄なもの邪魔なものという認識を持たれますが,衣食が足りてくると,礼節が人として守るべき大切なものであるということが納得できるようになると解釈すべきです。つまり,礼節を知る,それは礼節の価値に気付くという意味であると考えるべきです。読み間違いをしていたという反省が必要なのです。
 人は失敗や間違いをしているとき,深く考える機会を与えられます。知っている言葉の意味を再考することで,より深い理解に入ることができます。考えるという時間を持つことは楽しいことです。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2007年09月30日号:No.392)