《楽しみは 貸し借りのある 浮き世生き》

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 買い物し忘れたものがあると連れ合いが言うので,プリンターのインクを買いに出るついでにと出かけました。その帰りの車中でNHKラジオを聞いていると,川柳の紹介をやっていました。「浴びるほど 飲んでも忘れぬ 貸した金」という一句が聞こえてきました。何となく引っかかりを覚えました。選者らしい女性の声で「私は借りた金です」と言っているのが聞こえてきて,そうだという気持ちになりました。
 他人との間での個人的な金の貸し借りは全くしませんが,もしするとすれば気にして忘れないのは借りた金の方だろうなと思っています。貸すときは返してもらうことを前提としないレベルに止めるでしょう。お金の絡む人間関係に臆病なのです。そういえば,「忘れてた 振りして受け取る 貸した金」というサラリーマン川柳がありました。貸しても借りても,お金は気持ちにどんよりとした色を付けます。それが嫌なのです。
 お金ではなくモノを差し上げたり頂くことはあります。それは世間のつきあいとして必要な範囲で日常化しているので,特にどうという思いはありません。もっとも,大部分を連れ合い任せにしているので,直に感じていないだけかもしれません。
 貸し借りという関係は厚意や善意というレベルでもついてきます。お世話になったから,いずれはお返ししなければという気持ちを持たされることになります。それを苦にすることなく,人間関係のぬくもりと思えるようになればいいのでしょう。逆に,お世話してやったのに,何のお返しもないと思うのはあまり好きではありません。貸した恩は忘れ,借りた恩は忘れないという風にありたいと思っています。恩の貸し借りというのも妙ですね。
 生活改善運動の一環として作成されているのし袋には,お返し無用と断り書きがされています。それでも,なかなかにお返しはなくなりません。お返しをしないのは施されている立場になり,対等性を奪われることになるということなのでしょう。特に不幸ごとの場合には,前に頂いた御芳志に見合うだけのものというお返しの気持ちが重なることもあります。何処かで帳尻を合わせておこうという気持ちがでてくるのが,おつきあいの自然な姿のようです。相手がどう思うかということを気にしているためなのか,それとも自分なりに気持ちのけりをつけておきたいためなのか,おそらく両方なのでしょう。
 気持ちはどうであれ,するだけのことをしていればともに丸く収まる,そういう世間のつきあい形式があります。おつきあいとはやっかいなものですが,そのような無駄に見える気遣いをしなくなると,人のぬくもりを引き出す手だてが無くなるのは確かです。お互い様,そういう開き直りの妙を楽しむようにすればいいのでしょう。

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(2007年10月07日号:No.393)