《楽しみは 雑務の中に 見えるもの》

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 同じ話を聞いても,受け取り方は人によって違うものです。役職に関係する研修会に皆で参加し,その報告書をまとめる作業をしています。各人から提出された報告書を研修のプログラムに沿って並べ替えています。例えば,講話に対するまとめや感想が参加者別に並ぶことになります。同じ話材から報告を作っているのですが,味付けの仕方,聞き取ったポイントが十人十色です。聞く側の指向性と感度が違っていることになります。
 研修会は学びの場です。教える者と教わる者の気が合う度合いによって,学びの成果が異なります。例えば,疑問を持って聞いて,答を見つけることもあります。関心のある話題になったときに新しい知識を得ることもあります。何処か気脈が通じる所がないと,学びは成り立ちません。全く畑違いの話は,聞いていても聞き流されるだけで,頭に残らないのが普通です。周波数が合っていないので,雑音としか認識されないのです。眠くなるのはそのためです。
 全く住む世界の違う人の話は,取り付く島がありません。自分の身に振りかえることができないと,よそ事として脇に置かれ,生かされることはありません。がんばっている人からがんばりを聞かされても,よほど同じ状況にある人でないと,押しつけがましさを感じることでしょう。
 話の中身に「そうそう」と同意できるところがあり,「それだったら自分にもできそうだ」ということが見つかれば,「いい話だった」と受け入れられるでしょう。問題意識が一致しているので,話に引き込まれていきます。話のレベルが段階を追って構築されていると,聞くひとの問題意識の多様さに何処かで一致が見られるので,多くの人に有意義な話になります。
 研修を受けた方が何を学び取ったか,そのことを知ることは,話をする機会がある者にとっては,とても貴重な情報になります。力を入れて話された所が聞き流されていたり,軽く話されたことがしっかりと聞き取られていたり,すれ違いがあるのです。
 伝えたということと伝わったこととは違うということがごく普通に起こるということです。ただ,そのことは端から見ているから気がつくことで,当事者はお互いの思い入れを分かりようがないので,通じていると思いこんでいます。それでいいのだと考えることもできます。所詮,コミュニケーションとはそういう限界を内包するものという前提が必要かもしれません。
 報告書をまとめるという裏方の仕事をする中で,聞く側のバラエティを見せていただいたこと,コミュニケーションの有り様を考えさせられた余録は得難い楽しみになりました。

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(2007年12月16日号:No.403)