家庭の窓
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携帯電話の機種変更とやらをしました。新しい機種はワンセグのテレビを見ることが出来ます。テレビを持って歩こうというつもりはないのですが,ポイントが貯まったのでという単純なきっかけで,連れ合いのものと一緒に踏み切りました。交換してしばらく経ちますが,テレビを見る操作を確認した程度で,恩恵にあずかっていません。日頃からテレビ視聴という時間を取ることがないので仕方がありません。出掛けた折の待ち時間に利用できるかもしれないと思っています。
ところで,しばらくの間,新旧の携帯電話が机の上に並んでいました。旧い電話は電話としての機能は失われているのですが,カメラは使えます。何の不都合もなかったのに,いきなり用無しを言い渡されて,寂しそうにしています。見ている方ももったいないと思っているので,せめてカメラ機能だけでも使えないかと未練を残しています。でも,新機種も当然カメラ機能はあるので,ダブります。2台を持って歩くわけにもいかず,どうしようかと迷う数日が流れました。
結局,旧機種は引き出しの中に納まることになりました。こうしたことがたびたび起こるのが豊かな生活なのでしょうか? 倉庫や戸棚や引き出しには,役目を交代したものが静かに折り重なっています。新しいものに押し出されただけで,機能は失われてはいないので,廃棄するというステップに移れないまま,宙ぶらりんの状況です。思い切って引導を渡そうと思うこともあるのですが,逡巡しています。何かの折に使える,そういう気持ちがあるからです。
リユースという第2の利用も考えられます。不用品交換の機会があれば,その折にと思いながら,静かに待ってもらっています。一方で,特別な品物などではない,普通のありきたりのものが,引き取ってもらえるかと考えると,その期待はかなり薄いものであろうと思われます。大量消費という世の中では,ものが余っているのです。他の行き場所として,リサイクルという生まれ変わりも可能でしょう。いずれそこに落ち着かざるを得ないでしょう。
人も社会で役割を交代させられるという目に合います。そのとき,リユースできる能力があれば,第2の社会貢献も出来ます。それが実現できない場合は,リサイクルをしなければなりません。新しい能力を身につけて生まれ変わるのです。人は学習によって生まれ変わることが出来ます。自分の専門はこれと固定するのではなく,今現在つながっている身近な社会が必要としている資質を見極めて,新しい専門にシフトする柔軟性が求められます。おとこ,おとめ,という言葉の「おと」とは再生という意味を持っていることを思い出して,常に今を生きようとすることが,よろこびをもたらしてくれます。
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