《よろこびは 言葉信じる 人がいて》

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 ある会合でのことです。特に堅苦しく何かについて協議をするというものではなく,楽しく過ごそうという親睦の集まりでした。折角の機会なので,一人が何か真面目な物事について話しかけようとするのですが,それぞれてんでばらばらに話しているので,よく聞こえません。「誰かが話しているときは黙って聞こう」と声を上げる人がいます。それに対して茶々を入れるような発言があり、止みそうもありません。おしゃべりの場と討論の場とが混在しているようです。
 大人の集まりなので,どのような話があっているのか,場の流れを読んで臨機応変に切り替えることができるはずです。堅い話を混ぜっ返したり,話の腰を折るような投げやりな冗談を言って面白がるのもいい加減にした方がいいのではと思ったりします。他愛のないおしゃべりを否定してるのではなく,硬軟の話題を柔軟に語り合える雰囲気を楽しみたいと思うだけです。
 どのような会合でも,よく話す人たちがいます。それが対話にならないことが多く見受けられます。お互いに話す内容がすれ違っているからです。接点がないと展開ができません。いろんな情報を持ち寄って,みんなで組み上げるという楽しみが共有できなくなっています。例えば,宴席で飛び出す歌についても様変わりをしています。今はカラオケで歌い,誰も聞いていません。昔は,それぞれに十八番があり,それに皆で手拍子で伴奏を入れていました。歌を皆で作り上げていました。
 国会の委員会中継をみると,いろんなヤジが飛びます。話している人の言葉を細切れに聞き取って,変化球で切り返しています。話している内容よりも,その背後にある思惑を邪推するようないやらしさを伺わせます。言葉が通じていないのです。話し合いは言葉の真実を信じることで成り立ちます。言葉には裏があるという前提では,話し合いになりません。
 また,自分の言うことが聞き入れられないと,決裂といった行動も現れます。裏ばかり見て信じようとしていないのに,相手には自分の言葉を信じて欲しいというのは虫がよすぎます。どちらもどちらというのが世間の常識なのかもしれませんが,どうにもやりきれません。
 言葉はコミュニケーションの道具です。伝わらなければ用をなしません。伝わるというのは,言葉を信頼するということです。だからこそ,発言した言葉には責任を取るという覚悟が必要なのです。そこまで堅苦しく意識しなくても,言葉を正直に使いたいものです。
 もちろん,言葉は人が使います。言葉の信頼感は,人の信頼感に左右されます。話し合いは,お互いの人間を信頼することがなければできません。立場が違えば主張も違います。しかし,同じ人間同士,目的は同じと思い定めて,ただ当面の目標や手段が違うので,その折り合いを付けていこうというのが話し合いの意図になります。そのためには,お互いの言葉をよく聞いて受け止めることが必要です。
 信じ合えない人の間では、社会は成り立ちません。社会の幸せとは,信じ合えるという虚構を作り上げることではないかと思っています。

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(2008年03月23日号:No.417)