家庭の窓
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連れ合いはどういう訳か猫が好きではないと言います。子どもが小学生の時,通学路の途中にあるお宅から生後間もない雑種のビーグル犬をもらってきました。10数年共に生活した後見送って,二度と悲しみたくないから生き物は飼わないと決めているようです。
暮れまで整理ダンスの上に焼き物の猫がペアで飾られていました。並べると雄猫に雌猫が首筋をすり寄せて座り甘えているポーズになります。タンスが振動するために,猫が互いにそっぽを向いている位置に変わっていきます。連れ合いに話すと,何をいまさらといった素振りです。かわいそうなので,今は静かな書棚の上に引っ越しさせています。
このペアの猫は,学生時代に連れ合いが可愛いからと贈ってくれたものです。猫は嫌いなのに,思いを託した積もりであったのでしょう。あらためて眺めていると青春時代を懐かしく思い出すというより,何かしら気恥ずかしいものです。昔出した恋文を見せつけられるときのような気分です。
今の若者は携帯電話やメールで恋を語るのでしょう。青い山脈の「変しい変しい」という恋文はあり得なくなりました。手紙のように後々まで手元に残るものでもありません。さっぱりしていていいのかもしれませんが,来し方を振り返るよすがのないのは寂しいことでしょう。よすがこそ文化の憩いだからです。
世の中が便利になるのは,良いことと考えられています。便利というのは今現在に便利なのです。今の時代に合っていることは,明日の時代には合わなくなります。便利な製品の古くなりようはとても早くなっています。古くなると捨てられるようなものばかりに囲まれていると,いつまでも追いかけっこは終わりません。時は移ろっても変わらないものを基本に据えておくことをそろそろ考えていいでしょう。
歌の世界も,本の世界も,めまぐるしく変わります。覚えたと思ったら,もう終わりです。あらゆることが使い捨てになっています。じっくりと楽しむゆとりがありません。さっと見聞きして,それで終わり。そんな生活には深みが宿りませんから,人の気持ちも上っ調子になってくるのでしょう。世情が変わってきたと感じることが頻繁に起こるようになってきましたが,落ち着きの無さがその背景にはあるようです。
若さはあれこれ好奇心の赴くままに漂っても構いませんが,一方で成熟した大人は何かしらどっしりと落ち着いていてこそ,世の中のバランスは安定するものです。戦後の大人が呆然としたように,バブル後の大人も気が抜けてしまっています。そのことを自覚できることが,次世代への責任です。
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