《よろこびは 小さな疑問 拾うとき》

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 ある本を読んでいたら,最近の選択事情として,「汚れたから洗濯」ではなくて,「着たから洗濯」と書いてありました。その前後の文脈は,普段の洗濯に対しては洗剤がそれほど強力でなくてもいいというものでした。ということは,当たり前のことですが,汚れたと着たとは明らかに違う意味なのです。
 家族の洗濯物をたたんでいるとき,さすがに下着は全員が入浴の度に着替えていますが,上着に類するものについては,若者のものが頻繁に出てきます。小1時間着て出たに過ぎないものでも,即洗濯しているようです。まさに「着たから洗濯」なのです。そのように連れ合いがしつけたのかもしれませんが,それは子どもの頃のことです。外で遊び回っているので、着たら汚れるのが当たり前だったからです。我が家だけの特例かと思っていたのですが,そうでもないようです。
 着たから洗濯。もちろん夏場の汗をかくといった事情は別にして,清潔志向もいささか度を超しているような気がします。こう言うと,若者からはおそらくエエッーと言われることでしょう。清潔はよいこと,それに疑問符を付けられたら,理解できない! 何事も度を超すと拙いという感覚が失われていることを危惧します。きりがないことに向かって突っ走ると,生きづらくなるからです。少々のことは気にしない,そういういい加減さを持っておく方がいいのです。
 若い人は,多分,周りの人の目を気にしているのでしょうが,人はそんなに他人のことを見てはいません。自分の陰におびえているのです。つまり,私自身が気にしているから,他人も私をそんな目で見ているはずだと思い込んでいるのではないでしょうか。そんな個人的なこともありながら,それだけでもない背景もあります。
 世にあふれるコマーシャルは人の弱みを突いて商品を売り込もうとします。どうでもいいことをさも大切なことのように言い挙げて,気にするように洗脳してきます。例えば,臭いがするよと脅します。加齢臭という言葉が発明されました。加齢臭があって悪いか,そういう余裕が社会から失われています。消費社会の中で,暮らしのあれこれを指図されて生きづらくなっていることに気がついていません。それがいかにも時代の風情であるかのようです。人が生身の人でなくなっていくようで,怖いことです。
 たかが洗濯のことから何を大げさに考えているのかなとも思いますが,ちょっと待てよという目で日常の些細なことを手がかりに時代を考えてみることは,大人としてしなくてはならないことだと思っています。よかれと思ってなされる世間の人為が,大きく考えると余計なお世話であることもあり得るからです。清潔でありすぎてかえって人の抵抗力が弱くなっているということもあります。飽食の幸せがメタボリックを産み出しています。
 エエーッと言われながらも,ちょっと違うんではないかという苦い発言を誰かがしておかないと,社会のバランスが保たれません。社会はブレを失うと不安定になります。世間に逆らうという大げさなことではなくても,アレッという疑問を持ち続ける直感は失いたくないものです。

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(2008年04月13日号:No.420)