家庭の窓
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カーライルによると,「経験は最良の教師である。ただ,授業料が高い」のだそうです。一般的には,経験の始まりでは,失敗します。そのことによってコストが発生します。そのコストを若いときに払っておくと,経験を生かすことのできる期間が長くなるはずです。
ところが,社会の変化が早くなると,経験を生かす期間はあっという間に終わってしまいます。似たようなこととして,若いうちに勉強したことが,すぐに旧くなってしまいます。確かに技術的なことは日進月歩です。常にリフレッシュする経験が必要になります。
ところで,あらゆる経験が旧くなるわけでもありません。人としての生き方のような経験は,おいそれとは変わりません。技術は積み重ねが効くので,数世代すると格段に性能がよくなります。しかしながら,人は世代間の受け渡しはできません。生まれて新たに経験を繰り返すしかありません。
かろうじて,先代の経験を言葉という形で知恵として受け継ぐことができるだけです。そこにはまた経験が絡んできます。知っていることも,経験しなければ,身につかないのです。なるほどそうか!という確認が必要になります。つまり,人としての経験は,誰もが一代限りになるので,旧くなりようがありません。
暮らしの様相が技術の進展によって変化を受けると,経験の質が変容してきます。スーパーのような店が現れて,買い物での会話が消滅しました。人付き合いに関する経験がなくなってしまいました。核家族になって,お年寄りに対するつきあいの経験もありません。ご近所づきあいも少なくなっています。情報機器の普及によって,文字言語によるコミュニケーションが主流となり,言語経験が片寄っています。単語や略語の氾濫が気持ちの交流を中途半端なものにしています。
一人の人が経験する量には限りがあります。例えば,生まれも育ちも違うと言うとき,その経験も当然変わってきます。人はその経験の差によって個性という色合いを帯びます。その個性は,さらに,夫婦という結びつきによって,新しい経験を重ねて,似たもの夫婦という家族としての個性を持つようになります。その家族が地域社会の中でつきあいの経験を経て,土地柄という文化をまとうようになります。人は何層にもわたって経験の輪を重ね着することになります。
連れあいの経験との交歓を重ねると,二人分の経験として横に広がります。子どもの経験を取り込めば,家族の経験は縦に広がります。一緒に暮らすとは,経験を豊かにすることです。でも,それには,やはりコストが掛かります。コストを苦にせずに,新しい経験を迎え入れようとすることが生きているということなのでしょう。
昔の経験で生きている人がいると,時折,小さなすれ違いを起こすことがあります。それはそれとして経験に織り込んでいくようにすればいいのですが,経験としての受け入れを拒否すると,こじれてしまいます。そのコストは不良債権化します。日々新たなり。人は常に経験しながら,変わっていくものと思っている方がいいようです。
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