家庭の窓
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連れ合いにはめっぽう弱いのがどうにも情けないことです。何故なのか,改めて考えるつもりはありません。考えながら一緒に暮らす仲ではありません。割れ鍋に綴じ蓋という一対には,訳などは要りません。とかく人は何事にも訳を知っていないと落ち行かないという妙な欲望があるようですが,知力の限界を見極めておくことも,場合によっては必要です。
話は変わりますが,動物はいわゆる猫舌だそうです。動物は獲物の体温以上に温かいものを食べる機会がありません。想定外なのです。なんだそうだったのか,という納得で一件落着となりますが,それがどうしたというのでしょう。猫は自分が猫舌である訳など,知る気は全くないでしょう。環境に素直に適応しているのですが,環境が変われば熱いものに適応した舌を持つようになるのかもしれません。そのときはそのときです。
サメは泳ぎ続けていないと死んでしまうそうです。えら蓋がないために給排水ができないからです。速く泳ぐことで環境に適応した代わりに,不要な器官の発達が止められたということです。泳ぎ続けないと死ぬということは,サメにとって特段不都合なことではないでしょう。泳ぎ続けるように出来ているのですから。
人の目は縦の動きを見るのが弱いそうです。地面の上で暮らしているので,横に動くものを見届けることができればいいのです。また,近づくものを見るためには,左右の目で遠近を把握しています。これも水平の動きです。この視線の機能は,縦の動きを見る必要が少なかった名残でしょう。
身体機能は環境に適合していますが,人には思考という機能が備わっています。これが意外と厄介です。夢のようなことでもいたって簡単に思い描くことが出来ます。想像する力が創造の力になりますが,用心しないと妄想が紛れ込みます。普段の暮らしの場では,思考力の使い方が幼いと道に迷います。
近頃,自分勝手な思考が多くなっているように思われます。個性の主張という名の下に,思考に余裕がなくなっています。夫婦のことでも,自分にとって相手がどうであるかということが問題になっています。例えば,「どういうところに惹かれたか?」,「相手の何がいけなかったのか?」という話し方です。考える力は、相手のことではなくて、自分のことを考えるためにあるのです。相手のことは相手に任せる,それが基本的な個性の尊重なのですが,相手に求めることが出来るという主張が強くなりすぎています。これでは,どんなことでもうまく運ぶはずはありません。
連れ合いは連れ合い,その中でお互いに相手のためにどれだけ共通点を保つか,そうしたいという思いが凝縮するとき,それが愛情になります。LOVE,それは愛と訳されますが,ゼロという意味もあります。自分を無にしたときに、相手に対する思いやりが現れてきます。相手のことを考える,それが知力の使い方です。
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