家庭の窓
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不思議なことがあります。固定電話の受話器のコードがねじれてくるのです。誰も使っていないのにねじれるというのであれば超自然現象ですが,そんな大層なことは起こりません。夫婦二人で使うのですが,気がつくとねじれています。それが当たり前と思えば不思議ではないのですが,どう考えてもねじれるはずがないと思っているので、不思議ということになります。
受話器は左手で取り,左耳で聴きます。利き腕の右手をメモのために開けておく必要があるからです。話が終われば,電話機の左側の置き場所に戻します。この間,受話器は回転するはずがありません。それなのに,ねじれているというのは不思議です。左手に持って話ながら身体を回転すれば,結果としてねじれが発生しますが,電話中にスピンする様子はありません。そんなに不思議なら観察すればいいじゃないかということですが,忘れてしまっているので,未だ検証できていません。
このところ固定電話が減っているようです。携帯電話が普及してきたからでしょう。会社や家庭の身内同士の連絡であれば,個人電話である携帯電話が便利です。ところで,社会生活上は住所と電話番号という一対の情報公開が不可欠です。この場合の電話番号は固定電話のものです。一方で,個人電話番号の公開は何となくはばかられます。プライベート用というニュアンスがあるからです。
携帯電話の番号は11桁の数字ですから,個人を特定することは一般にはできません。匿名性は確保されています。公開しても個人情報が漏れるということはないように思われます。それなのに公開を控えたいというのは,プライベート電話であるということ,不特定の人とのつながりを恐れる,拒否したいといったことがあるのでしょう。情報社会の中に暮らしながら,個人情報は守秘するというのは,考えようによっては不思議なことです。誰もがつながりを持つことができるようになっていながら,誰からもつながりを持たれることは避けたい,矛盾しています。
時代遅れを自認しているので当然ですが,携帯電話はお財布代わりになっているようだということを思い出しました。財布の番号であれば大切な懐なので,秘密にしておきたい気持ちも分かります。それにしても,電話と財布を一緒にする感覚は不思議に感じます。便利という域を超えているのではと,かえって不用心さが気になります。過ぎたるは及ばざるがごとしという言葉が思い出されてしようがありません。個人情報を守る一方で,危機管理を手薄にしている矛盾があります。手間暇を惜しむ便利さの追求はほどほどにしたいものです。自分にとって便利なことは,狙う方にも便利になるのです。
人のすることは,気がつかないうちに,ねじれを産み出します。ちょっと目を転じて,広く見渡してみることが必要です。ちょっと待てよ,そういった思考をしてみると,不思議なことがあちこちに見つかります。不思議を見つけるのも,暮らしの中の小さなよろこびです。なぜなら,何かしら考える時間が生まれているからです。
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