《よろこびは 流れる言葉 つかまえて》

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 俳優の奈良岡朋子さんが対談で話していた一言をメモしています。後輩に対する指導について,「教えるのではなく,伝えたい」と言われていました。自分が持っている知恵を教えるのは,教える者と教わる者の二人の関係です。しかし,教える者は先に教わる者であったはずです。自分が作ったものではなく,教えられたものであり,その流れを意識すれば,伝えるという言い方が相応しくなります。
 教える人は先生と呼ばれますが,先に生まれたということであり,知恵を伝達する流れが前提になっています。知恵は受け継がれていくものという長い時間意識で見ることを忘れがちです。自分の知恵は自分のものと思っていれば,人に教えることを好意であると感じるようになります。
 知恵は皆のものであるという考え方が普通でした。仲間の誰かがよそで教わってきた知恵を皆に教えて共有していました。最近は,自分が教わったことは自分のものという独り占めが当たり前になっています。特に経済的な価値が伴う知恵については,所有権という考え方が普及しています。誰に教わったのではなく自分で考え出したという場合もあり,自分のものと思うのも無理はありません。
 知的財産という言葉が生まれました。特許や著作権というバリアが設けられ,対価を払って使用許可が下りるというシステムです。それが一般化した社会が知価社会となるのでしょう。知の恵みではなく知の価という受け止め方です。個人主義がじわじわと社会通念を変質していきます。
 個人情報保護法も情報は皆のものという考え方への抑制になっています。悪用を避けるためですが,善用も巻き添えになっています。社会が機能するためには、個人の情報をお互いに認知することが不可欠です。かつての生活では,ふすまの向こうのことは聞こえないことになっていましたし,知っていても知らないふりをするという了解がありました。しかし,そのような暗黙の了解が消えていくと同時に,情報保護をせざるを得なくなっています。
 知恵と情報は似て非なるものと分けるなら,同じように論ずることは出来ません。しかし,いずれも社会で共有するものという面では,通じていると思うことが出来ます。社会的な財産という視点からあれこれを見ることも無駄ではないと思っています。
 物事を考える手法として,個々のものに分けることが第一のやり方ですが,次のステップとしてまとめていく,統合するというプロセスがあります。そこに社会という枠組みを想定することが出来ます。一般には,分析をした後には考察が伴いますが,そこには全体を組み上げるキーワードが想定されているはずです。そこまで大層なことを持ち出さなくても,物事を考える際には,岡目八目という立場,広い視野からという態度が有効になります。
 皆のものは自分のもの,自分のものは自分のもの。何となくそのような雰囲気を感じています。自省も込めて矛先を自分に向けてみるつもりで,あれこれを整理しながら,学んでいます。

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(2008年06月08日号:No.428)