《よろこびは 当てにしないで 感謝する》

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 「当てにするから腹が立つ」。テレビで紹介していた言葉です。他人同士の仲では通用しませんが,親しい仲では誰でも思い当たることがありそうです。親しいから当てにしたくなります。してくれてもいいだろうという甘えです。してくれないと相手に腹を立てるのは筋違いなのですが,そこが人間の弱いところであり愚かなところです。
 当てにできる人だから,親しくなることができます。しかしながら,そこには五分五分という制限があります。お互い様という枠を守らなければ対等な関係ではなくなります。量的な面では了解がなされるかもしれませんが,問題は個々のケースに対してお互いの思惑がずれることです。一方がしてくれるだろうと期待しても,他方はそうではないと判定することはあり得ます。
 その曖昧さを無くすために,例えば,夫婦の間では役割分担という方便が用いられてきました。自明のこととして当てにしていい,当てにされているという思い込みが作られてきたのです。ところが,時代が変わり,五分と五分の目盛りが変わり,役割分担に不公平さが現れてきました。極論すれば,すべてのことを折半にすべきであるということになってきました。役割を分担するのではなく,なすべきことすべてを単純に分担することが当然となりました。
 もちろん,性役割という古い概念の払拭が背景にあり,男女同権という目標に向けて改革が進んでいるのですが,まだその途上にあると思われます。行き過ぎたり戻ったりを繰り返しながら,男女の特性を生かした同権が手に入ることを願います。長寿社会では,世代ごとに植え込まれている性役割意識が混在するので,せめぎ合いや譲り合いの喧噪があるはずです。代替わりという大きな流れの中で,少しずつ変わっていくことでしょう。
 組織の中で生きていく上での処世訓として,「焦らず,慌てず,当てにせず」という言葉があります。当てにすることの不毛はよく出会うことだという経験に基づいた言葉なのでしょう。当てにするというとき,その多くは言わないでも分かってくれるだろう,分かるべきだという思い込みがあります。言わなければ分からない,そういう言葉が必ずいいわけとして出てきます。自分が思うから人もそう思うという同一視は危険です。してほしい,してあげよう,それは全く逆の立場なので,同じ発想にはなり得ないのです。
 してあげようと思っていても,もし相手がしてもらって当たり前という態度であれば,温かい気持ちに水をかけるようなものです。決して長続きはしません。当てにするということの背景に当てにして当然という傲慢さがあるから,腹が立つようになります。何を腹立てているのというのが,周りの反応になるはずです。当てにしてないのにしてもらえたら,ありがとうの言葉が出てきます。当てにしていたら,感謝の気持ちは弱いはずです。その辺の機微を弁えておかなければ,自分の卑しさに負けてしまいます。

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(2008年08月10日号:No.437)