《何処の誰 挨拶一つで 保証され》

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 挨拶をしなくなった若者たちという話題がテレビで語られていました。田舎ではしていたが,都会に出るとしないものと思わされているようです。誰もしていないからでしょう。それに挨拶などしていると妙な風に受け取られ,ストーカーされるかもしれないというおそれを感じているのも,世情を反映しています。
 挨拶は同士である確認です。挨拶をして返礼されないと,仲間ではないと拒否されているように受け取ります。そんなイヤな思いをしたくないからことさら自分から挨拶をしないということもあるでしょう。挨拶した方が気持ちが楽になることは知っていても,そのきっかけをつかめないでいるのが実状でしょう。
 都会では出会う人が多すぎます。いちいち挨拶していたら,キリがありません。お互い見ない振りをせざるを得ないのもわかります。そういった環境であることを,田舎人は都会の住み難さと感じ取ります。都会人が地方を訪問して感想を述べるとき「人があったかい」というのは,警戒したり我慢したりと無理をする必要がないためです。
 今住んでいる所は車で高速道路まで5分,空港まで15分,新幹線駅まで20分という交通の便に恵まれた町です。出かけるにはいいのですが,逆に簡単に入ってこれる所でもあります。そうなると何処の誰とも分からない人との出会いに身構えなければという気持ちが芽生えてきます。ご近所にも賃貸住宅が目に付くようになり,行き会う人が見ず知らずの人となってきました。見ない振りをするようになります。こうして近所が家の続きとしての「内」から,「外」に変わります。夜のゴミ出しにパジャマのままで行っていたのが,着替えなければという様変わりです。向こう三軒両隣が生活圏を共有する同士として意識できればいいのですが,その気がない隣人を持たされるのはご免こうむりたいものです。
 年に数回地域の人が集まる機会として,地域のことを皆で決める総会と宴会,花見やソフトバレー大会,除草作業やカン拾いなどが催されます。その他にご近所で夏と冬に持ち回りで家を訪ねての食事会もしています。わざわざ何かを一緒にする機会を持たなければ,同士にはなれないようです。
 何処の誰とも分からないという言い方は,逆にすれば,何処の誰か分かっているということです。何処とは生活をしている場所であり,そこに人とのつながりを持っている保証があるということです。生活をしていないのであれば,誰からも保証を取り付けることはできなくなります。挨拶を交わす人がいるということは,自分の保証書なのです。

(2001年02月04日号:No.44)