《幸せは あなたと私で 違います?》

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 親が子どもに向けて言うセリフに「一人で大きくなったような顔をして・・」があります。親としてはことさら感謝されるべきなどと思っているわけではなく,いろんな方のお陰を蒙っていることを自覚してほしいだけです。最近は,お陰様でという言葉を使える若い人がいなくなりました。
 連れ合いがテレビを見ながら,「昔は望まれて結婚するのがよいと言われていたけど今は違うみたい」と話しかけてきます。「あなたと結婚したら私は幸せになれるが,あなたを幸せにはできない」という不思議なプロポーズを思い出しているようです。
 子どもの間はしてもらう立場でいいのですが,大人になったらしてあげる立場に逆転しなければなりません。その際に必要なことは,これまではお陰を受けたから,これからはお返しをするんだという大人としての覚悟です。それも親だけからお陰を受けたというのではなく,広く世間の方々から無形の支援を受けてきたという洞察ができて,社会へのお返しという気持ちを抱くことができます。
 直接的な関わりしか見えないと,この恩返しは狭く閉じこもっていきます。社会に対しても,「社会が何をしてくれた」という借りを踏み倒すような態度を示します。世の中は持ちつ持たれつなのですが,持たれつだけしか見ようとしない幼稚さから抜け切れていません。
 複雑な社会になってサービスの出所が見えにくくなっています。民放のテレビ番組は只でサービスされているような感じですが,実のところ巡りめぐって消費者が広告費の上乗せ価格として支払っています。社会からの恩恵は只だと思いこんでいるとしたら,世間知らずとなることでしょう。
 自分がどれだけ頂くかは計算できるのに,人にどれだけ差し上げられるかは計算しようとしない厚かましさが,次世代に染みこんでいるような気配を感じるのは杞憂でしょうか。楽して金をひねり出そうという不純さが異端視されない社会ができつつあります。
 人間関係の基盤である男女の結びつきにも自分の得しか口にできないようでは,「恋という字は下心」がしゃれでなくなってしまいます。情けは人のためならずと,情けを掛けることが相手のためにならないという理屈が勢力を伸ばしてきたようです。
 旧世代は次世代に幸せの基本形を教えてやれなかったようです。実のところ,旧世代も古世代から教えてもらってはいないのですが,お陰様で何とか学ぶことができたというのが本音かもしれません。そうであれば,まだ希望はあるかもしれません。

(2001年02月11日号:No.45)