《よろこびは 余計なお世話 持ち出して》

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 昔の路地がそのままに家の間を走っているので,道は車1台が通る幅しかありません。道路沿いに目隠しのために植えられている立木が枝を伸ばして,道路に覆い被さっています。人の頭の高さのところに枝が出ているので,車を避けるために道端によると邪魔になります。屋根付きトラックは触れそうになりながら通っています。ブロック塀からはみ出している枝を切り落としてくれるといいのですが,そういう気遣いをする家とそうではない家があります。
 手入れがされているとかいないという家の佇まいは,住んでいる人の気持ちを表しています。手入れのされ方が,内向きになっているか,内外共に向けられているか,それもまた住んでいる人の社会的な生き方を伺わせてくれます。家は個人的な住まいに過ぎません。しかし,住まいが居住地域の中できちんとした装いをすることなく孤立然としていては,私生活が寂しいものになります。私生活だから近隣の人とのつながりは無用,そうではありません。私生活における豊かな関係こそが人の幸せを紡ぎます。
 外見を見苦しくない程度に整えるのが普通のことです。それは守りの姿勢です。そこにもう少しだけ手を掛けることもできます。見た目に美しくということです。攻めの姿勢です。一人ひとりが少しの手出しを持ち寄れば,周りの空間が明るくなり,和やかな雰囲気が漂うようになります。ある会議の席で,そのようなホッとする風景をまちの通りに見つけませんかという活動を提案しています。
 このような提案は余計なことを持ち込むことになり,「面倒なことを!?」といった無言の反応が跳ね返ってきます。自分を大切にという風潮が強い中では,自分のためにならないこと,煩わしいことは忌避されます。自分の世界を外の世界と関わらせるメリットが見えなくなっています。何の得がある?というわけです。してもらうことには敏感なのですが,してあげることには鈍感に,それがコミュニティを干からびさせていきます。その世の流れにさおをささなければなりません。
 生きる場であるコミュニティは付き合いを通して触れ合うことで成り立っています。合うという状況は共に手出しをしなければ生まれません。一方的な手出しでは結ばれません。コミュニティは誰かが作ってくれるものではなく,皆で協同して作るしかありません。自分という意識から自分たちという意識への広がりが求められます。そこに至る入り口は,皆の中で生かされているという気付きです。
 ホッとする風景に出会ったら,それは誰かがワザワザ作ってくれている,その恩恵を受けているということを確認してほしいと願っています。言われて理解するのではなく,自分で経験しないと人は考えを変えないからです。大きなうねりに逆らう余計な提案ですが,焦らずに働きかけていこうと思っています。

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(2008年09月14日号:No.442)